堀井ヒロツグ

Photographer, based in Kyoto / http://www.…

堀井ヒロツグ

Photographer, based in Kyoto / http://www.hirotsuguhorii.com

マガジン

  • 堀井日記

  • 「身体の声を翻訳する」

    京都国際写真祭 KYOTOGRAPHIE KG+SELECT 公開トークにて  2019.5.3

最近の記事

守りたいけど壊したいもの

一月の終わり頃、京都の町を雪が覆い尽くした日があった。 車道と歩道の境目が全くわからなくなった堀川御池の交差点を、原田さんと一緒に並んで歩いた。真っ白な道をふかぶかと進みながら、横断歩道の始点もわからない状況に、危ないねと笑い合う。でも同時に、なんて愉快なんだろうと思った。いつも心の底でそんな状況に出会いたかったに違いなかった。 ここを歩きなさい。ここで止まりなさい。僕らの動きを制限しているという実感もないほど意識にしみついた町の境界線が、雪によって半ば強制的に一変させられ

    • 価値のある声

      夢に近い声で生きたい。と思いながら目覚めることがある。 最近観ている『エルピス』というドラマの中で、「いい人間になれば、勝手にいい声になるんだよ」という台詞を聞いたとき、至極わかる思いがした。ここで言うところの「いい人間」とは、必ずしも(というか決して)道徳的な範疇の「よさ」を指さない。 時々、いい声をもつ人に出会うことがある。本当のことを言おうとしている、と思う声だ。声質がいいとかそういうことではない。ことあるごとに自分の心を覗き込もうとしてきた人の声の芯であり、無数の

      • たましいの手触り

        小さな頃からいつも、この身体を脱いでみたかった。 脱ぎたいと思いながら、それでも身体があることを欲望し、身体があることに翻弄されるその矛盾が不思議でならなかった。 そしてまた、いつか魂だけの存在になったら一体誰を好きになるのだろうと、誰かに好意を持つたびに、そのまなざしに含まれているものについてよく考えた。例えばその人の見た目が変わっても愛せるだろうか、と。 それは言い換えると、見た目が変わっても再びその人を見つけられるかという、見えているものの向こうを見つめる目だ。 誰

        • 「来たるべき」かつての日々のために

          『すべての人に石がひつよう』というバード・ベイラーの絵本が好きで、それに倣ってときどき「自分の石を見つける」という遊びをする。 自分の石を探す目線を持ちながら河原を歩くと、なぜか目にとまる石がある。道行く人とふっと目が合ったときのように。そして、なぜその石が自分の石だと思うのか、ということを口にしてもらう。 ある人は、この重さがちょうどよかったと言う。その石を持たせてもらって、この人はこんな重さがちょうどいい身体を生きているのか、と唸る。 どんな自己紹介を聞くよりも、拾い上

        守りたいけど壊したいもの

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        • 堀井日記
          9本
        • 「身体の声を翻訳する」
          6本

        記事

          暗室が照らす記憶

          フィルムカメラを使う最後の世代だと言われてきた。 現在でも、作品を制作する際はカラーフィルムを使っている。ネガフィルム特有のトーンが好きだということもあるが、10年という時間をかけて同じ被写体を撮り続けることがあるため、「ローライフレックスとコダックのポートラ400」という同じ組み合わせのまま撮り続けられることが、何かを見つめるときのひとつの物差しになってきた。 
撮影の仕事でデジタルカメラを用いることもあるけれど、両者は同じ写真というメディアを扱いながらも、制作のなかで育ま

          暗室が照らす記憶

          静坐社の終わりによせて

          2016年の4月。解体を控えた静坐社の和室から、随分と古びたマッチ箱が出てきた。色褪せた茜色のケースはうっすらと埃を被っていて、まるで時間が止まったタイムカプセルのようだった。まだ使えるんかな。和田君がそう言いながらマッチを擦ると、じゅっと音を立てて火が灯った。 建築はそれ自体がひとつの有機的な身体のようであり、呼吸をしている。呼吸とは風や光の通過であり、あるいはそこに出入りする人々の往来である。そしてこの家はとても長い年月をかけて、息継ぎの速度を落としてきた。最早、眠って

          静坐社の終わりによせて

          好意の行き先

          誰かと付き合うことが、フィジカルなセックスを伴う関係であるという前提があったとして、そこから降りてみたらどうなるだろう。 好意があって、そして一緒にいたいという希いが続いて、しかしそこに性行為という条件が介在しなければ、パートナーとして隣にいる人の選択肢はとても広がるのかもしれない。ふと、そう思ったのだ。恋愛には性愛がセットであると思い込んでいた無邪気さを傍らに置いて、友愛や親密さがベースになった単位のことを想像してみる。 個人的な性愛の傾向を振り返ってみれば、そもそも親密

          好意の行き先

          心は何でも作り出すことができる

          2020年の後半は内藤礼さんの「うつしあう創造」から始めようと思い立ち、金沢の21世紀美術館へ行ってきた。(2020.7.1) 内藤さんはどうしてこの世ではない場所を知っているのだろう、と思う。この展示空間に身を置き続けることは密やかな臨死体験にも似ていて、もしどちらの場所も生であると仮定するならば、これは臨生体験と呼ぶのかもしれない。 そこはこの地上から地続きのグラデーションの先にあり、そして地上での生を漂白しなければ辿り着けない場所を垣間見せてくれる。 空間に潜在して

          心は何でも作り出すことができる

          山元彩香さんとの対談「身体の声を翻訳する」⑥(最終回)

          —写真と夢は似ている ​ ​ Y なんか、写真を始めたきっかけとか聞いてみたい。 ​ H 写真を始めたきっかけ。僕、元々文芸学科にいたんですよ、写真をやる前。 ​ Y 文芸学科? ​ H はい。日本の近代詩や近代文学が好きだったんです。 ​ Y 文章ね、すごくいいなと思って。どの文章も。写真のテキストだけにしとくの勿体ないっていうか。書けそう。 ​ H 写真を独学で覚えたばかりの時に、鷹野隆大さんの写真集「In my room」にとても衝撃を受けたんです。そこではセクシュ

          山元彩香さんとの対談「身体の声を翻訳する」⑥(最終回)

          山元彩香さんとの対談「身体の声を翻訳する」⑤

          —自分という人間の輪郭を誰かに引いてもらっていた ​ ​ H 写真の解釈について、そこには未来に開かれた余白があってほしいという思いが、どこかあります。自分たちは常に過程の存在だから、今という一部分だけを取り出して裁いてみるようなことは対症療法に似ているというか。同じ人たちを10年撮影していく過程で、彼らが自分で自分を規定していた輪郭のようなものが、彼ら自身の未来によって更新されていくのを目の当たりにして、例えば体調を崩すことも大きな流れの中ではバランスを取っているんだと

          山元彩香さんとの対談「身体の声を翻訳する」⑤

          山元彩香さんとの対談「身体の声を翻訳する」④

          —どこからどこまでが自分の身体なんだろう ​ H この写真を撮った時も、同じ場面を分割して撮っていて時間的なスライドがあるんですけど、どうしても一つの画面で撮れない生理的な反応があって。分割してみたい欲求というか、そうせざるを得ないというか。それってなんなんだろうってしばらく言葉にできなかったんですね。一見、すごくコンセプチュアルに見える写真で、意図がありそうなんですけど、その意図を自分が発見できるまでに実はすごい時間がかかっていて。 それが最近、「どこからどこまでが自

          山元彩香さんとの対談「身体の声を翻訳する」④

          山元彩香さんとの対談「身体の声を翻訳する」③

          —記号を剥がしたものを見てもらいたい ​ H あ、なんか共通点というか。僕もその人が身につけているものを剥いだ「精神の顔」が撮りたいとずっと考えていたことがあって。ちょっと個人的な話になるんですけど、10代の頃から、自分の身体の持つ性質についてずっと問い続けてきたんですね。 それは、人によっては国籍のアイデンティティーだったり、あるいはセクシュアリティーだったりするかもしれないんですけど。そこで属性を名付けられることで、自分の状態が固定されてしまうように感じていた。名前

          山元彩香さんとの対談「身体の声を翻訳する」③

          山元彩香さんとの対談「身体の声を翻訳する」②

          —過剰に触れられることと、過剰に触れられないことが極端にある ​ ​ H さきほど「人と人が触れてる写真が多い」という指摘があったんですが、皮膚感覚っていうものについて考えた時、現代ってもしかしたら過剰に触れられることと、過剰に触れられないことが極端にあって、その中間があまりないのかなって思うんですね。 東南アジアとかにいくと、青年の男性同士がスキンシップをする場面ってよく見るけれど、日本って学生時代のある頃からスキンシップが無くなりますよね。家族と触れ合うことも恥ずかし

          山元彩香さんとの対談「身体の声を翻訳する」②

          山元彩香さんとの対談「身体の声を翻訳する」①

          —こんなに繊細で脆い身体がどうしてこの社会の中で生きていられるのか ​ 堀井(以下 H) 本日は個展「見えない川」のトークイベントを開催するにあたって、写真家の山元彩香さんをお招きしています。今回のトークは「身体の声を翻訳する」という演題をつけているのですが、山元さんもポートレイトを軸とした作品をつくられています。山元さんの作品を見ていると、身体を通じて眼差そうとしているものへの共感と、それと同じくらいの得体の知れなさがあって、いつか一緒にお話ができたらいいなと思ってい

          山元彩香さんとの対談「身体の声を翻訳する」①

          ひとりきりにはなれない場所を選ぶ

          近くに川があってよかったと思うのは、もう何度目だろう。 人目も憚らず芝生に仰向けになり、ぐんと伸びをする。靴下も脱ぎ捨て、夜露で湿った土に踵が触れる。普段は仰ぎ見ている立場の夜空を寝転びながら見つめていると、ようやく正対して「目が合った」という心地になる。そのままぼーっと何も考えず、星の瞬きと同調する。日々の重力を解いて、ひとりという単位に戻る時間。そんな風に誰にも侵されない時間を望みながら、ひとりきりにはなれない場所を選ぶ自分のか弱さを隣に連れ添って、いつか還る場所を見つめ

          ひとりきりにはなれない場所を選ぶ

          はじまりの絵本(書評)

          「はじまりの絵本」〜100人の子どもと大切な絵本展〜 京都の祇園にある禅寺 禅居庵(ぜんきょあん)にて毎年開催されている展覧会で、「子供の頃に心に残っている絵本」「いま大切な人にとどけたい絵本」というテーマで選書をしました。この文章は2017年当時のものです。こんなコメントを寄せていたことをすっかり忘れていた。ちなみに文中の「ある作家」とは「石牟礼道子」さんのこと。 -------- いま大切な人に届けたい絵本「すべてのひとに石がひつよう」 作:バード・ベイラー 絵:

          はじまりの絵本(書評)