山元彩香さんとの対談「身体の声を翻訳する」②

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—過剰に触れられることと、過剰に触れられないことが極端にある


H さきほど「人と人が触れてる写真が多い」という指摘があったんですが、皮膚感覚っていうものについて考えた時、現代ってもしかしたら過剰に触れられることと、過剰に触れられないことが極端にあって、その中間があまりないのかなって思うんですね。
東南アジアとかにいくと、青年の男性同士がスキンシップをする場面ってよく見るけれど、日本って学生時代のある頃からスキンシップが無くなりますよね。家族と触れ合うことも恥ずかしいことになっていく。

その一方で、東京の満員電車とか、過剰とも言えるくらい他者と接触する空間なんだけど、それゆえに自分の感覚を抑制することでなんとか保たれているような部分ってあるじゃないですか。僕は都市部で暮らしていた時に、オンオフのスイッチをすごく頻繁に切り替える必要があって、でもそれをすることによって身体の感度が総じて下がったというか、鈍化していった感覚があったんです。閉じながら部分的に開いていくような細かい進化がある気もするんですけど、僕の場合はそこに追いつけなくて、そのことが京都に移住してくる理由にもなりました。


—分断された身体を生きてしまうこと


H 満員電車の話もそうなんですけど、そういった日常の中では周囲の環境から自分の身体感覚を切断してしまうことがしばしば起きる。あるいは社会生活を営む上で、自分の振る舞いと心が乖離するようなことが常態になったりする。そういった「分断された身体を生きてしまうこと」のような違和感を目にすることが多くなり、ずっと気になっていました。それは、今回のシリーズの動機にも近い部分です。
山元さんのステートメントの中にも「人の体って土地の記憶や時間を内包している」とありますが、人の身体からどういった情報を読み取られているのでしょうか。

Y 身体の見た目、例えば形や色がその土地によって変わってきたりするように、視覚的な情報として得られることも大きいんですけど。私の場合、人とポートレートを撮る時に、コミュニケーションが断絶されるような状態に持っていきたくて。
大学時代、サンフランシスコに留学してた時に、認知症のおばあさんを撮らせてもらったんです。その時に、いざ対峙したものの入っていけないというか、すごく計り知れないものが身体の中にあるような思いがして。

私は、その人に蓄積されているものを一枚一枚剥がしていくような感覚で、時間をかけてその人のポートレートを撮るんですけど、その人がまとってる空気とかその人らしさとかいった演技のようなもの———。人間が日常の中で全く演技してない状況ってあんまりないかもしれないと思ってて。私にとっての写真は、その演技が焼きつく瞬間を剥がしたい、というところから始まっているんです。そうやって向き合った時に、そのおばあさんから計り知れないものを感じて、その身体の中に詰まっているものを、分からないけど感じてしまった。その体験が大きくて。

それで撮るのを諦めてしまったというか。そこで、私にはできることが何もない!となって。その計り知れなさというか、ふぁっと中に入っていきたいみたいなところがあったんだけど、それができなかったから、撮れなかった。それでも撮ったんだけど。

H 人がまとっているものを、剥がしたものを、求めている?

Y そう。剥がしたものを、求めていたんだけど。結局剥がして中からコロンて出てきたものは、その人をその人たらしめている何かなんですけど、それがまだ何か分からないから色々インタビューとかしたり。それが元々あったのかとか、いつからそれがあったのかとか。

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