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反効率的学習のための法律学入門「『個人の自由』のカタチ」個人の自由① #9

1 はじめに


私たちは「自由」でしょうか。それとも「自由」とは言えないでしょうか。人による、場合による、という答えでしょうか。

自由については、単純なイメージを持つこともできます。自分のことは自分で決められるとか、誰かの指図を受けないとか。あるいは、ネガティブなイメージを抱いていれば、自由とはわがままのことであり、自分勝手のことである、という見方もありえるでしょう。


このシリーズでは、法を次のように意味づけてきました。

法とは、人間社会の所与(各個人間の諸力の差、人の心の闇、集団形成力、時間・資源・エネルギーの希少性と余剰性・過剰性及びこれらの偏在、信用供与の不可欠性、病気や災害などの非人為的リスク等)が必然的に生み出す不定形主体間の不定性・不定量な互酬関係という現実を、法的概念という認識枠組みで捉え直し、「個人の自由」を基底理念として、二当事者間の定性的かつ定量的な権利・義務関係に編成することで、新しい現実を作り出していく知的技術の体系である。

では、上記のなかにでてくる基底理念たる「個人の自由」とは一体なにか。

法の最深部に位置する「個人の自由」の内実がつかめなければ、結局、法は無意義に帰すということになります。法が要請するそのほかの大事な理念や原理も、「個人の自由」という源泉から溢れ出てくるものですから、「個人の自由」という基底理念のない法は、法的概念や権利・義務の動かし方という技術的側面のみが残った骸骨のようなものになります。この技術的側面は、人類の先達が営々とつないできた高度な知的資源ではありますが、それのみでは、魂のない機械人形を動かすようなことになりかねません。



2 「個人の自由」のカタチ


個人の自由は、法の最深部に位置するダイヤモンドのようなものです。その内実を説明するため、言葉によって概念規定していくことも可能でしょうが、ここでは、カタチ・図を用いて形態的に理解していきたいと思います。次のモデル図で考えてみます(木庭顕『笑うケースメソッド 現代日本民法の基礎を問う』14-16頁(勁草書房,2015)参照)。


「個人の自由」のカタチ


Aは個人です。Aは私でありアナタでもあります。α(アルファ)は「Aが大事にしている何か」であって、Aと固く明快な関係を緊密に築いています*。これに対し、B、C、D、その他の個人は、曖昧不透明な集団を形作っています。曖昧不透明であるというのは、外部からはBとC、BとD、CとDのそれぞれの関係性がはっきりせず、誰が黒幕で、だれが協力者か、他にも関与者がいるのか、あるいは資金源はどこかなどが分からず不透明である、ということです。

この対比構造のうえで、Bが、Aとαとの関係に切り込んできます。Aとαを切り離そうとしたり、引き剥がそうとしたり、αをB側へ奪い取ろうとしたりします。これを実力(ないし暴力)といい、この場合、「Aにαの占有がある」として、これへの侵害を認めてBの行為をただちに違法と評価し、Aを優先的に守るのが法であり、このようにして防御されるべきAの法的地位を名付けて「個人の自由」という、と規定することができます。


「個人の自由」のカタチ.明快かつ緊密な関係(占有)vs曖昧不透明な集団(実力)


以下ではさらに、簡易なイメージ例をみていきます。


3 いくつかの簡易なイメージ例

(1)「α」=子

とある母親Aが、自分の子供αと一緒に楽しく暮らしています。明快かつ緊密な関係性です。明快ですから、Aは、αをどこかに隠したり、社会と隔絶させたりはしていません。緊密ですから、Aはαのことを大事にしており、αを尊重しています。

このような状況で、Bが介入してきます。その背後には、うごめく不透明なCやDなどがいます。Bは、「私こそαの母親だ」と主張する人間かもしれませんし、「Aはαを虐待している」と言い立ててくる何者かかもしれません(Bは「権利」主張をしている)。こうした外形をともなって、Bが、Aとαとの切り離しを図ってくるわけです。この場合、Bは実力を行使したとして違法の認定を受け、速やかに敗北すべきことになります。

Aの自由を守るとは、Aを砂漠に一人でほっぽり出して、「あなたは何ものにも縛られず、指図もうけない状況ですから自由ですよ」と言うことではありません。Aにとっての自由は、大事な自分の子どもであるαと一緒に生活することです。同じ時と場所を生きること(やがてαは自立して離れていきますが、それまでは育てあげて見守ること)です。そのAからαを奪っておいて、そこに自由などあるはずもない。αとの関係性をAに具体的に装備させることが、自由の内実だということです。


(2)「α」=生活基盤(仕事、経済的資産)

Aは生活のために仕事をして、自宅や家財などの資産を有しています。これらはAの生活基盤であり、これなしではAは生きていけません。Aにとってのαです。ところが、Aはとある事情から、Bから多額のお金を借りてしまい、返済できない状況に陥ってしまいました。そのときBが「権利として要求する」としてAに求めたのは、Aの自宅の接収(競売など経ず直接Cの支配下に入る)と、今後はDの経営する会社で住込みの従業員として働くこと、でした。Aは自律した生計を営む基盤をすべて、根こそぎ奪われます。すなわち、Bは背後でうごめくCやDと協力して、Aとαとの関係性を実力で破壊しようとしているのです。そうあれば、法はAの自由を守るため、かかるBの行為を違法として排除しなければなりません。

生活基盤は経済的基盤と言い換えてもいいと思います。経済やビジネスは、分業・特化・交換による付加価値の創出という面のみならず、上記の視点を加えて複眼的にとらえる必要があると思います。経済やビジネスを、単なる「お金儲け」として極度に矮小化した観念で捉えていると、「お金儲けは卑しい」という言説をあえて振りまくお金の亡者にまんまと絡めとられて、すべてを巻き上げられていくことになるでしょう。

個人の自由の観点からは、経済的基盤をAに具体的に装備させる必要があります(そのときのキー概念は「費用果実連関」及び「信用」です)。そのことにより、Aは独立と自由を確保し、その足場から、労働市場を含む経済的な取引関係に安心して臨むことができ、より豊かになることができる。こうした個々人が無数にいることで、社会全体の富も増大し、皆が報われることになります。個人の自由を守ることで、皆が、社会全体が報われるという構造です。


(3)「α」=A自身の身体、精神(心、感受性、知性など)

権威的で全体主義的な社会は、個人の身体や精神を大事にしません。その社会内のメンバーに対しても、安易に身体を拘束したり、考え方を強制したり弾圧したりします。個々の自由な感受性など論外という行動様式をとります。なぜならこうした社会は、個人の自由という概念を正しくは知らないし、知っていても、特権を有する層が自分たちを守るため、自由などというものは共同体の結束を破壊する我儘という名の悪性腫瘍だと規定してしまうからです。

こうした社会は、おおむね外に対しても武力により威嚇します。つまりは、実力を行使します。

しかしこのような状況は、どこか遠い社会・国家の話ではありません。物事には濃淡があり、程度というものがあります。現れ方が違うだけ、ということもあります。私たちの社会は、本当に上記のようなものではない、と断定できるかどうか。

私たち一人一人が、その個性と感受性を大事にして、学びを深めて知性と能力を大いに高め、家族や友人とともに、広々とした人生を生きていこうとするときに、Bらはこう言ってきます。「どうして私たちが感じるように、お前もそれを同じように捉えないのか。お前の感受性はおかしい」と。Bは、Aがαを有することに我慢がならず、介入しようとしてきます。介入するときの典型的な道具立てはもちろん正統を装う法律や条令です。このときA自身が、「私には心の自由がある」と深く意識している必要があると同時に、法が、Bからの介入を排除するためにAとαとの関係性を防御するという機能を果たすことが求められます。

「個人の自由」は防御的に機能するものであり、攻撃的に機能するのではないということです。



4 おわりに


Aに具体的にαを装備させ、その間に明快かつ緊密な関係性が築かれている。これに対し、曖昧不透明な集団を形成しているBが、Aとαとの間に介入しようと実力を行使する。このとき法はAを優先して防護する。「個人の自由」とは、このような場合に守られるAの法的地位だということができます。

現実社会の事象は複雑かつ多様で、無限の様相を有していますので、「個人の自由」モデルからはかけ離れて見えます。同モデルを基礎に、目の前の具体的な事象との偏差を分析してアナロジーを働かせる、ということが大事になってきます。



*「… 一人一人が掛け替えのない何かを自分のもとに具体的に持っている ...」木庭顕『新版 ローマ法案内』41頁(勁草書房,2017)





*以下の記事につづく




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