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ツイッター社を私は責められない

米国議会占拠を受け、トランプ大統領のツイッターアカウントが凍結されました。追って、政治的に偏った計7万アカウントも凍結されています。

このツイッターの決断をドイツのメルケル首相が批判するなど波紋が広がっています。ツイッターCEOのジャック・ドロシー自身、「危険な前例だ」と警鐘をならしているほどです。

表現の自由はどこまで制限してよいのでしょう。偉い法律の先生方が研究に研究を重ねてもなお結論が出ない、難しい問題です。

しかし結論が出ないながらも、ツイッターやSNS各社は日々ビジネス判断を下す必要があります。先述した批判などを踏まえても、私は今回のツイッターのビジネス判断を責められません。以下3点理由を述べます。

1. 今までのやり方では結局暴動を防げなかったから

ツイッターは長らく、事実と異なるとされるトランプのツイートに警告ラベルをつけて来ました。しかし、結局それでは死人を出す今回の暴動を防げませんでした。

アカウントの永久凍結はやりすぎでは?危険なツイートだけ削除すればよかったのでは?そんな声も聞こえてきます。確かにもしかしたら永久凍結の前にやれることはあったのかもしれません。

しかし死人を出した暴動が一度起きてしまっています。もう二度と起こしてはいけないという責任感がツイッターの幹部にはあったはずです。そんな背景もあり、緩めの規制を試して暴動が再発するリスクを取らなかった、最も厳しいアカウントの永久凍結に踏み切ったツイッター社の決断は、理にかなったものではないでしょうか。

一貫性がない、という批判もあります。自分に反対する人たちを処刑しているとされるイランの最高指導者が引き続きツイッターを使っていたりするからです。こうしたアカウントは当然取り締まるべきです。

しかし、これらの取り締まりが遅れていることは、トランプのアカウントを凍結しない理由にはなりません。米国大統領が暴動を扇動したという前例のない状況下、大統領の残り任期が数日という不安定な状況下では、やむをえない決断だったと言えるのではないでしょうか。

2. 表現の自由には限度があるから

『「私は貴方の意見に反対だ。しかし貴方の発言の権利は命懸けで守る」ヴォルテールのこの言葉が思い起こされます』。こんなコメントが以下の記事に寄せられていました。

反対意見を尊重するのは民主主義の基本中の基本ですが、敢えて一つこれと矛盾する考え方を紹介させてください。カール・ポパーという哲学者が唱えた、寛容のパラドックスと呼ばれる考え方です。

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ポパイ


以下Wikipediaから引用します:

> もし社会が無制限に寛容であるならば、その寛容は最終的には不寛容な人々によって奪われるか破壊されると述べる。ポパーは、「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」という一見矛盾した結論に達した。

トランプが当初当選した際に各所でシェアされていた内容で、今回改めて思い出させられました。
表現の自由の制限がどこまで許されるのかを考えるにあたり、一つ出発点となる考え方なのではないでしょうか。

3. 公共財となったSNSは、もはや一社の努力で正しく扱える代物ではないから

上記にあげたような理由から、ツイッター社のビジネス判断は責められません。しかし、今回の一件がそもそもツイッター社のビジネス判断に委ねられてしまったことには問題があります。

メルケル首相の『意見表明の自由を制限する行為は「法に基づくべきだ」』という指摘はもっともです。

ツイッターを始めとするSNSは、運営企業が管理するのがもはや適切でない公共財と化しています。

その公共財に誰がアクセスできるべきで、誰が遮断されるべきなのか。これを一部のシリコンバレーのエリートが決めるべきではありません。民主的に選出された議員の人たちが議論し、法として整備されるべきです。

少し話は変わりますが、SNSの暴走による痛ましい事件が後を断ちません。

公共財となったSNSにまつわる世界的なルール決めが、一刻も早くなされることを切に願います。

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