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これが親父の生きる道

皆さんこんばんは!あー☆です。

今日は親父の誕生日です。定年の少し前に検診で病気がみつかり、、あっという間に天国へ旅立ちました。

親父も中学校の教師をしてたのですが、バスケ部の監督(顧問の先生)をしていたこともあり、土日はほとんど部活で居なかったためあまり遊んでもらった記憶がありません。

正直、今でも自分の中では反面教師になっています(笑)親父みたいな父親にはなりたくないと、私は我が子とは幼い頃から体を張ってたくさん遊んだし、夜勤明けで眠くても動物園連れていったし、川でバーベキューやキャンプもよく連れて行きました。

同年代の父親の中ではがんばった方だと思ってます(笑)

子供が好きだから中学校教師になったのだと思ってましたが母によると違うようで、初めて聞いたときは、好き勝手生きて人生悔いないだろうなと羨ましく感じました。

根っからのバスケットマン

親父は身長が185cmありました。私も身長は比較的ある方なので、これだけは父親の遺伝子に感謝しています。

中学からバスケをやりはじめ、高校、大学とずっとバスケ漬けの体育会系な毎日だったようです。大学4年でバスケを引退した親父は卒業後は商社マンとしてバリバリ働きはじめます。今でいう3高の先駆けだったのではないかと思います。

そんな生活が2年経ったある日、中学校の横を歩いていると体育館で部活をしている生徒が目に入ります。

「久しぶりにバスケやりたいなあ。」

そう思った父はいきなり中学校の体育館にそのまま入っていき、生徒に混じって部活をやり出したそうです。今やったら確実に通報だと思います。1970年代はそんなことが許されたんでしょうか(笑)

久しぶりに汗を流した父は、改めてバスケが大好きなことを再認識し、同時にそのとき決断ます。

「バスケをやるために中学校の教師になろう!」


大学時代、教員免許を取得していた親父。商社マンをしながら教員採用試験を目指す日々が始まりました。

親父曰く、あの頃は笑顔と元気があれば誰でも教師になれた時代とのことで、いきなり某県の中学校教員採用試験に合格してしまいます。絶対バスケやるマンがここに誕生したわけです。

これぞ天職

接待で毎日帰宅は午前様。睡眠時間は1日3時間、残業時間は毎月100時間以上。今日は中国、明日はインドと出張ばかりの日々。

体力と精神力だけは誰にも負けない自負があった親父。水を得た魚のように授業と大好きなバスケ指導に打ち込みます。

ときは70年代。モンペもいない、体罰もうるさくない、職員室ではタバコ吸える、大好きなバスケやれる。

これぞ天職。商社マンをやっていた3年間、無駄な時間を過ごしてしまったと悔やんだそうです。SLAM DUNKの三井かよと思いましたが(笑)私ならこんな教師に教わりたくないですね(^-^;

県大会優勝

ついに自分の率いた中学校が県大会優勝します。教師になって5年?が経っていました。

この頃には私も生まれ、3人の子供がいるにも関わらず、育児はすべて母親任せ。自分は好きなことを好きなだけやる。よく母親もキレなかったよなあと思います。

以前noteに投稿した「確かに愛されていた」にも書きましたが、母親の母子手帳には親父は私を可愛がってよく散歩にいった記載がありました。にわかに信じかだいですよね(笑)

怒濤の1980年代

教師になって7~8年目でしょうか。初めての人事異動がありました。ここで鍛えられたとよく武勇伝を聞かされていた私たち。

行き先は鬼のように荒れ果てた中学校だったようです。構内暴力が社会問題になっていた時代背景もあり、親父が担任を持っていたクラスも学級崩壊状態で毎日大変な思いをしてたと。

家庭訪問や警察に行ったり、仕事以外でやることが多く、部活も出来ないため自分も校内で生徒と一緒に暴れてやろうかと何度も思ったそうです(笑)

おかげで我が家は、公立の中学校ではなく不良のいない私立を目指すような教育方針になりました。

1980年代といえば、華やかなバブル時代。商社マン時代同期だった連れから、ボーナスで札束が縦に2段積めたとかバブリーな話を聞くたび、辞めなきゃ良かったと後悔したみたいです。教育委員会ももっと良い人材いなかったんでしょうかね(笑)

変わっていく親父

荒れ果てた中学校での赴任も気づけば8年。100人は俺の手で更生させたとよく言ってましたが、この頃の親父は目付きも鋭く、並みの不良ならビビってしまいそうなオーラを纏っていたのも事実です。

バスケもほとんどやれなかったが、「人が変わっていく、成長の場面を見ることができたことで教師という仕事の素晴らしさを知った8年間だった。」と後に聞いて、親父を変えてしまうなんてすごい生徒たちだなと感心してしまいました。

息子がグレた90年代

90年代。荒れた中学校での経験を引っ提げ、3校目に赴任します。そこはいわゆるニュータウンで教育水準も高く、平和な中学校でした。私の通う中学校の隣の校区になります。

スポーツも大変強く、バスケ部は赴任の前々年には全国中学校バスケットボール大会まで出場していたほどです。

親父は失われたときを取り戻すかのようにバスケットボールの指導に打ち込み、土日は毎週のように遠征と、バブル崩壊してるのにバブル時代のサラリーマンの如く、ほとんど家にいませんでした。

そんな中で私がどんどんグレていきます。ほとんど学校へもいかなくなり、家にもあまり帰宅しない。児童相談所と警察に保護されては迎えにいく。

「お父さん。バスケットボールより、まずは自分の息子さんに向き合いましょう。」

自分より10くらい若い職員に言われてる姿を当時は蔑んで見ていました。

少年審判の日、若い女性の裁判官でしたが、

「お父さんはバスケットボールと◯◯君、どちらが大切なんですか?仕事と◯◯君、どちらが大切なんですか?」と言われ、イラッとした様子で

「そんなもの比較しないでください!」と応えた親父。

「◯◯君を初等少年院へ送致します。」

審判が終わった瞬間でした。

当時はざまーみろと思ってましたが、親父は親父なりに悩んでいたのだと思います。

少年院に入ってしばらくしたあと、教師を辞めて少年院の側にアパートを借りて住むと言っていたようです。私と同じ空気を吸って少しでも側にいたいからと母親に聞いたとき、胸が熱くなりました。

もう親父を苦しめるのはやめにしよう、バスケットボールをやらせてあげようと決め、私は更生を誓いました。

ついに全国へ

教師になって25年以上の月日が流れていました。ついに夢であった全国大会に出場が決まったのです。

私は成人し社会人になっていました。親父の勇姿を見るために会社を休んで新幹線で見に行きました。

親父すごいな。教師になったときの夢をついに叶えたんやな。

ここまでの教師人生は波乱万丈だったけど幸せだったと分かるような素敵な笑顔でした。


ざっと親父の武勇伝と母親から聞かされていた生きざまをまとめて書きましたが、やっぱり好きなことをやれて幸せだったんでしょうね!

親父の遺影は今日も優しく笑っています。


最後までご覧いただき、ありがとうございました(^_^)







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