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足るを知る最近。

二人で海岸沿いの堤防にジャンキーフードを持って腰をかける。

昼前まで起きちゃ寝を繰り返し、行く予定だった映画にも予定通りの寝坊をした。
昼には満腹中枢をこれほどにもかとつつくハヤシライスを食べ、昼風呂までかました。
あれほど寝たのに、ネトフリを見ながら、罪深き長めの昼寝。
起きた頃には外の世界も暗くなり、再度潮の香りを感じに海へ。

満足感というどこか哲学者が説いていそうな問いに一筋の煙が船の向こうへ抜ける。

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サピエンス、というものは不思議なものでネアンデルターレンシスやネオデルタレンシスが滅びてしまったのに、「無駄」を排除しなかったからこそ、今世まで生き延びてきたらしい。(最近知った単語並べてみた。)

仕事をする中では、「無駄」というものは最高ランクに嫌味を言われるのに、生きる中では「Core」になるのだから少し嫌味である。

(まだ完読はしていないが)集団での生活を担保するために、古代ギリシャでは農業以外は汚れとされ、差別対象になっていたそうな。初期〜中期ヨーロッパでも同様の傾向があるそうな。(古典根源的社会主義、とでも勝手に名付けよう。かっこいいから。)

商売人はごく一部の人のみに許され(かといって、高貴な存在でもなく能力値が高かった、というわけでもないらしい)、ある種村人全員が生き残るための公益として行なっていたんだとか。

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現代の労働観と比較することは極めて困難だし、「労働」という概念自体、解像度が低すぎるが、強いて共通点がるとするならば、「生存」と「発展」だろうか。

いやでも2年後には会社という枠組みにピットインして、会社の生存と発展に尽力をすることになる。

2年後も、今宵のように自分の生存と発展を確保できていると信じたい。

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「生きているのに」休んでいる僕に少しだけ罪悪感を感じる僕と、「生きているから」休むことの大切さを知るあなたと。

自分も知らない「自分を見る」(noteを綴る)僕と、「他者を見るから」成長できるあやつと。

意外と、反対なのに一番距離が近いのだからここでは、「類は友を呼ぶ」という言葉は似合わない。

正反対の彼らに対して、尊敬でもない、不満でもない何か一音一音を当てはめていくような存在に感化されながら、僕はまた「生きている」からパソコンを叩き、「自分を見る」から僕自身を理解しながら、また仕事に戻る。



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