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ひろえっちの本質ノート#2 地方議会に政党って必要?

自治体職員のくせに

大学を出てから19年間、政令指定都市の職員をしてたわけだけど、その間、ずーっと疑問に思ってたのがコレだ。
長年職員をしてたら、職場でこんなこと言ったら「お前バカじゃないの?」とか言われる割に、誰も「必要性の根拠」は言ってたなかったと思うなあ。
「そもそも族」の私は、どんな話題でも大体いつも「ほじくり返さないで!」と言われるので、心の中で思うだけで、そのうち言わなくなったけどね。

自治ってなんだろう?

そう思ったのは25歳くらいの時かな。
最初の3年で仕事は完璧に嫌になり、辞めようとしたけど、そこは父にこっぴどく叱られて、仕方なく続けることにしたその時、都市計画系の部署に異動になり、計画策定への「住民参加」の場を作るのを手伝うことになった。
そしたら、それまでの仕事と180度ひっくり返ったような感じになって、今度は、自分が何をやってるのかさっぱりわからなくなってしまった。
一番衝撃だったのは、日々、住民が使う駅周辺の公共施設の整備なのだから、使う人の意見を聞くのはもっともなことだし、これはやりがいがあるなと思いながら取り組んでいたある日のこと。
「議会があるのに住民から直接意見を聞くなんて、議会軽視だ!」とねじ込んできた議員がいたのだ。
確かに議会制民主主義は「間接民主主義」なので、代表たる議員が地元の人々の意見を代表するというのは正しい見解かもしれないけど、細かいシングルイシューまで全部代弁できるわけないだろう、と、本当に不思議なこと言う人だなと思った。
かといって、何でもかんでも住民の皆さんのご意見で、となったら、議会って何するところになるんだろう?という疑問も解消しない。
私は本当に、全部わからなくなってしまって、もうこれは勉強しにいくしかないな、という結論に達してしまった。
ちょうどその頃、研修扱いで大学院に行かせてくれる(給料と学費が全部支給!)という素敵な制度があったので、必死で作文と面接をクリアし、現在の北海道大学公共政策大学院の前身、法学研究科公共政策コースの修士課程で学ぶことになった。

小馬鹿にされながら答えを探す

指導教官の行政学の先生は、とても立派な方で、尊敬していたので、その先生の指導を受けられることになったのはすごく嬉しかったけど、1年目の最初の頃は、とにかく「キミのところの役所は、住民参加なんて本気でやるつもりはないんだろう?」と小馬鹿にされるばかりで、悔しいやら悲しいやら、せっかく来たのになんてこった、と思って、研究室や図書館の書庫に篭って、ひたすら本を読み漁り、何かを掴もうともがき続けていた。
一番たくさん読んだのは福沢諭吉。
民主主義を日本に根付かせようとした功績ある人、ってことになってるけど、今や私は立派な「陰謀論者」なので(笑)コイツのせいで日本はおかしくなったんだよな、と思う面も多々ある。
とはいえ、その頃はそんなことカケラも思わず、真剣だったし、制度が作られる基礎となる思想については大体理解できたのではないかと思う。
最終的には、本当に死にそうになりながら(苦笑)修士論文を書き上げたわけだけど、ごく簡単にいえば、議会というシステムには自ずと限界があり、細かい施策に住民が参加する仕組みづくりは、議会とは何ら矛盾も起こさないし、むしろ、住民が行政について監視の眼を持つためにも重要だ、という結構普通な結論で終了。
とはいえ、この2年間の学びは、その後の私の人生に大きな影響をもつものだったことは間違いない。

それなりにがんばって書いた修士論文

徹底的に掘り下げて考えること

これは大学院での学び方の基本だと思う。
2年間考えたのは「そもそも、自治って何だ?」ってこと。
遡って、学部時代に在籍していた経済学部では「世界経済論」のゼミに所属していて(ここもめちゃくちゃ濃いゼミだった)、かなり政治寄りの文献も読んでいて、そこで知った概念に「補完性の原理」という言葉があった。
これはEUができるときに基本原理とされたもので、実は、地方自治においてもこの考え方を使うと、とてもわかりやすくなる。
自治における補完性の原理とは、自助→共助→公助という順番に、自分自身や家族でできないことをコミュニティで解決し、コミュニティの手に負えないものは、行政機関を作ってまとめて行う、という考え方。
ごみ収集などを例にとると、大昔はみんな庭先に埋めるか燃やすかしていたけど、人が増えてきて、それも困難になったから、みんなで人でお金を出し合ってゴミを一緒に処分するようになり、都市化とともにそれを行政が担うようになる、みたいな感じ。
でも、現代の行政は、そこから何十年もの間に「生活に必要な機能を担う」というところからどんどん広がって、観光・産業振興・文化振興などなど、もはやこの補完性の原理を当てはめても、よくわからないものがたくさん出てくるようになった。
これは、読んでいる自治体職員の人たちの相当数を敵に回しちゃうかもしれないけれど、私は、自治体の機能は、究極的には「税・戸籍・福祉」の基本3分野だけでいいんじゃないか、と思っているのだ。
余談だけど(あ、この記事全体が余談だったww)、こういう基礎的な分野よりも、経済や産業、観光などの分野は「花形職場」になっちゃってるところがあるのもまた気になっちゃうところだ。

議会の話に戻ろう

もう一つ、大学院に行ってた頃に知ったのは、ヨーロッパの田舎の町なんかでは、地方議会の議員は職業じゃない、ってことだった。
町内会の役員みたいに、みんなで輪番で、町の問題についていろいろ話し合うという、めちゃくちゃ「普通」なやり方をしてるらしい!
なんだよ、それでいいじゃんかよ!と私はすごく納得したんだけど、じゃあ、日本はどうしてこうなっちゃってるんだ?と素朴な疑問を持ってしまった。
もう、どこから始めていいのかわからないくらい、システムが複雑かつ固定化してるので、そこはサクッと諦めて(おいおい・・・)、議会の話だけに絞って考えてみる。
地方自治の基本ルールは「地方自治法」に書いてあるわけだけど、平成12年に、歴史的な法改正があった。
それまで「国の出先機関」としての役割がたくさんあって、それが「機関委任事務」という名前で行われてたんだけど、このかなりの部分が「自治事務」(自治体の裁量でできる仕事)に変わったのと、個別法の委任で行う「法定受託事務」っていう名前に変わったのだ。
ということは、形式上、国の関与はすごく少なくなって、それぞれの地域に合わせたローカルルールを作って、柔軟にやってね、っていうこと。
だけど、今の地方議会は、国政の政党の地域出先機関のように「会派」があり、結局、国政の方針の縮小コピーみたいなことを各会派の皆さんは主張したりしちゃってて「どっち見て仕事してるんですか?」とツッコミたくなることばかりだ。
そう、最初のテーマに戻ると、ここが私にとってはずーっと違和感だった、という話。

地方自治は民主主義の学校?

この言葉も、何かの教科書に書いてあるんだけど、これ、ヨーロッパの田舎町のシステムなら当てはまってるけど、日本には当てはまるのかなあ?
まるで、政党政治の縮小コピーをやってる地方議員の人たちが、市町村議員→都道府県議員→国会議員と「進学コース」、だから学校、なるほどね、って感じになってしまう(本来そういう意味ではないよね)。
市町村の議会議員の選挙に、中央政界の大物が応援に来て大騒ぎ、っていうのも、疑問以外何物もない。
結局、地元の人たちが自分たちでまちのことを考えようよ、という中から、地域の代表を出す、なんてことは、今のシステムの中ではほとんど不可能に近い。
議員になるなら、どこかの政党に所属して、公認してもらわなければ、スタートラインにすら立てないわけだ。
もし、自分たちの力で「勝手連選挙」で候補者を議会に送り込んだとしても、今度はまたとてつもなく大きな障壁が待っている。
「会派」として一定の人数条件をクリアしないと、実質上の議会での議論に参加ができないからだ。
私のいた役所は、比較的議会は早い段階からオープンで、本会議以外にもすべての委員会の審議を傍聴できるようになっていたので、かなり公開は進んでいるってことにはなってた。
でも、あまり知られてない話なんだけど、この委員会の審議よりも重要な会議が「議会運営委員会」っていう会議。
これは絶対非公開。そして、この会議で、委員会から本会議まで、すべてのシナリオが決まる。
例えば、住民からの陳情・請願について、採択するかしないか、とか、国への意見書について、可決にするか否決にするか(直接そうじゃなくても、会派の人数を数えれば自動的にどうなるかわかる)みたいな内容を、全部、この非公開の会議で先に決めておくわけだ。
「1人会派」の議員は、そこで何が話されてるか一切教えてもらえないので(もちろん、議事録も非公開)、議会に席はあっても、すべての議論の蚊帳の外、ってことになってしまう。
もちろん、質問の時間は与えられるけど、それも、差別的に短かったりする。
だから、政党に属するのが得だ、ってなるのかも知れないけど、そうなると「自分の意見」よりも「党の方針」が先になっちゃって、それもどうなの?となる。
これが「合理的だ」と言えば確かにそうだけど、じゃあ、議会なんてやる意味あるのかな?と思っちゃう。
こんなことを知れたのも、議会事務局に勤務してたことがちょっとだけあるからなんだけど、本当に、毎日げんなりしながら出勤してたものだった。

結局どうなるのがいいのか?

統一地方選挙が近づいて、SNSでも知人の議員さんの活動やらいろんな情報を目にするたびに、議会事務局勤務時代のあのどんよりした気分が蘇ってきて、全く希望が持てないなと思ってしまう。
でも、それでも私たちは日々の営みを続けていかなくちゃならないし、日本国内に住む以上、関わらずにいようとしても完全には無理。
この10年ずっと考えてきたことは「本当の自治コミュニティで独立国になる」が一番いいな、ってことだ。
そんなことできるの?って思うかも知れないけど、細かく見ていくと、これまでは国のシステムや法律で縛られてたと思ってたものも、そうでもないことがわかってきた。
例えば、義務教育の学校も、自分たちで作る動きが出てきたし、私が今住んでる十勝の農家さんの中には、農水省ががっちり管理してる農協のシステムから離脱する人も増えてきている。
何より、今回の牛乳の生産調整政策でもびくともしないで経営してるのは、自分たちで加工から販売までしている独立系の酪農家さんだったりする。
つまり、自分たちの食べ物を作ることや自分の地域の子どもたちを自分たちで教育する、ということはできるようになってきた、ってことだ。
そこには、直接のステークホルダーの人たちが「自分ごと」として議論する余地も当然あるし、いいなと思ったらどんどんパクることもOK。
ここで、地域コミュニティでの話し合いの場を作るために、代表制の合議体を作るとしたら、これが議会の原初的な形態になると思うけど、そこに国の政党政治は1mmも介入できる余地はない。
政治が変われば、行政が変われば、この国は良くなる、と私も昔は思ってたけど、どのシステムももはや全部オワコンだ。
修繕して直るような状態ではないので、早いとこ離脱して、新しい仕組みを作り始めた方が、ずっとサステナブルだということで、今はめちゃくちゃスッキリしている。
でも、今まで一度も投票は欠かしたことがないので、今回ももちろん行くけど、こうした「一国複数制度」を容認する考えに近い人に入れようと思っている。
あ、そういえば、こっちにきてから、地元の町議会議員や町長の選挙、ずっと立候補者が定員内で、まだ1度も投票してないんだよー!って、こんなオチでいいのかwww


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