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「どのようにすればできますか?」という魔法の質問がまったく効き目がない事態はどのようにして発生しているのか

諦めていることにすら気づいていないという諦め感

最近、コーチングセッションをしている中でハッと気づいたことがあった。それは、何かを最初から諦めてしまっている人は、自分が諦めているということにも気づいていないのかもしれない、ということだ。

「あの人素敵だなあ、あんなふうになれたらいいのになあ」と思うことはあっても、自分とその人とは全然違うから、無理、と思い込んでいる状態。
無理と思う理由は何なのかを掘り下げていくと、その状況を変える手立てはいくらでもあるわけだけど、それを考え出すエネルギーがないのかな、という感じがすることが多い。

そういう私自身も、気づかないうちに諦めてしまっていたことがずいぶんたくさんあったな、と思い出す。
そのほとんどが「経済的理由」というやつで、子どもの頃、普通のサラリーマン家庭で、3人きょうだいの一番上という立場だった私は「こんなお金のかかることを親にお願いしてはいけない」と、勝手な自己規制をかけて諦めてしまっていたことが多かった。

でも、それ以外は「やってみたい」と言ったことは、たいがいやらせてくれていたし、一生懸命応援もしてくれる両親だったので、ほとんどが私の「考え過ぎ」の範疇だったんだろうな、と今になってみると思うのだ。

そんなふうに育った私だったので、離婚した元夫が、まだ小学校の低学年だった息子に対して「お前にそんなこと無理だ」と言って、やりたいことをやらせなかったことに対しては、本当に腹が立って、結局それが理由で離婚に至ったのだった。
息子は3歳の時に「広汎性発達障害」と診断されたのだが、それを理由に「こいつは障害者なんだから、普通の人間と違うんだ」と、元夫は言うようになってしまった。
これでは可能性の目を全部摘んでしまう、という危機感で、子どもを連れて実家に帰った、というわけだ。

もし、あのまま結婚生活を続けていたら、息子はどうなっていただろうかと考えると、恐ろしくなる。
ちなみに、今年24歳になる息子は、一体、どこが発達障害だったのだろうか?というくらい、自分なりの道を進んで、楽しそうに生きている。

おそらく、その人自身も諦めていることに気づいていない、というほどの諦め感は、小さい頃に親や先生など周囲の大人から受けた「どうせ無理」が潜在意識レベルにまで刻み込まれている結果なんじゃないかという気がしている。

「それ、言い訳ですよ」って言っていいのかどうか

諦めている人が言う言葉は、世間一般的には「言い訳」というものになるわけだけれど、相手の発言に対して「それって言い訳ですよね」なんて言おうものなら、まず間違いなくブチ切れるだろう。
私も、今の夫(私のコーチでもある)に「言い訳言ってないで、さっさとやれば?」と言われると、本当に腹が立って、ふて寝してたことも多かった。
今は、自分が言い訳を言っている自覚ができてきたので「あ、そうですね、失礼しました」という感じだけど。

つまり「それは言い訳です」と指摘されても大丈夫な関係というのは、相当な信頼関係が必要だということになる。
私も、ここは言ったほうがいいなと思った時でも「最初に謝らせてもらうんだけどね、気を悪くしたら本当にごめんなさいね。でも、今言ったのは『言い訳』っていうものじゃないかな、と私は感じたんですよ」
なんていう、超回りくどい言い方をしたりする。

言い訳はなぜ生まれるのだろうか?

しかし、言い訳が出てくるのにも十分な理由があるとも思うのだ。
それが「言い訳しか出てこないような問いかけをしている」ということ。
相手がそういう問いかけをしてくる場合もあるし、自分の中の「自己対話」にそういう問いかけが出てくる場合もあって、後者のほうが実はかなり深刻なんじゃないかと思う。

15年くらい前に、初めて「魔法の質問」というメソッドに出会って、それが私が今の仕事に進むきっかけになったわけだけど、最初に参加したセミナーで衝撃を受けたのが「言い訳を生み出してしまう質問」というものがこの世に存在しているということだった。
いわゆる「尋問」と呼ばれるもので、その代表選手が「なんで〜できないの?」というものだ。

子ども向けの魔法の質問のワークショップでもこれを子どもたちに伝えるわけだけど、解説をした瞬間、子どもたちは「あー!それ、いつもお母さんが言うやつだー!」と盛り上がってしまって、やれやれ、と苦笑いしてしまう。

そして、この質問を転換して「どのようにすれば〜できますか?」と聞けば、自然と解決策やアイデアが生まれます、と教わるわけだけど、これが全然機能しない場合もやっぱりあるんだな、と思うようになった。

「どのようにすれば」を考え続けるにはエネルギーが必要だ

私は51歳から、子どもの頃からの夢だったシンガーソングライターの活動を始めた。
私には、ボイストレーニングと作詞作曲・編曲など、音楽全般を教えてくれている師匠がいるのだが、彼がこの前「僕のやり方って、人によっては『真綿で首を絞められるみたいだ』って言われちゃうんですよ」と笑いながら話していた。
それは何かというと、生徒が「難しい、できない」と言ったら「どういうところが難しい?」と聞いて、それに対する解決策を提示し、解決するための具体的な練習方法まで伝えるから、なのだそうだ。
いつも「できない理由」を完全に封鎖されてしまうので、人によっては「厳しい」と感じてしまうらしい。

確かにそうだな、と私も思うのだけれど、そもそも「できるようになりたい」のであれば、できない原因を見つけて対処するのは当たり前だと思っているから、そんなふうに思ったことは一度もなかった。
と、そのことを話すと「だからひろえっちは上達が早いんですよ」と言われて、逆に驚いてしまったのだ。

え?だって、歌上手くなりたいから習いにきてるんじゃないの?
できない原因を潰されて気分を害するっておかしいじゃん。

そんなふうに考えていった時に、そうか、と思い至ったのが
「できるようになりたい欲求・欲望」
がどのくらい強いかなんだ、ということだった。

人間だって動物だから、行動の原動力はやっぱり欲望だと思う。
知能が発達している分、損得勘定や未来に対する期待や、周囲への忖度などなど、他の動物にはない行動トリガーもあるかもしれないけど、やっぱり、何より強い動機は欲望なんじゃないだろうか。

だとしたら、言い訳を量産する人は、本当の本当はそれができるようになりたいという欲望が低い、とか、場合によってはまったくないんだけど、世間体とか常識とか周囲の期待とか、そういうものが作用して「そうなりたいと言っておかなければまずい」みたいなもので自分の希望を言ってたりするのかもしれない。

なんとかして、欲望を感じてほしい

と書くと、なんかすごく変だな(笑)。
いや、正確には「自分の欲望を第一にして行動を選択してみてほしい」という感じなのかもしれない。

そういう意味で、私はよくクライアントや講座の受講生に「自分ファーストに行動してみよう」という言い方をする。
それで通じなければ「もっとワガママになってみたら?」と言ったりもする。
周囲との調和や協調も大事だけれど、最初に周りの人のことから考え始めてしまうと、変数が多くなりすぎて、何をどうしていいかわからなくなってしまう。

まずは、他の変数を外して「私」という一つの変数だけで考えてみると、シンプルな方程式で、考えやすい。
「私は、本当はどうしたいんだろう?」という問いにストレートに答えを出し、そのために「どのようにすれば?」という問いを投げかけていくこと。
この順番でしか、自分の欲望を感じることはできないし、そこから生まれるエネルギーを感じることもできないんじゃないだろうか。

私がどうしてこの仕事をしてるかといえば、理由は結構簡単で、私が関われる範囲の人には、みんな、幸せに生きてほしい、と思っているから。
カッコ良すぎると言われるかもしれないけど、やっぱり、それしかないな、と思うし、それこそが私の真の欲望だというのも感じる。
どこまでいっても、人間の行動の源泉は欲望なんだ、という確信は、ここから生まれているんだな、と再確認したところで今日はおしまい!(笑)

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