「すずめの戸締り」後悔と祈り
今日、観に行った。「すずめの戸締まり」。
観る前から死ぬほど緊張していた。
本当に観るのか? と自分に何度か確認した。
観た後どうなるか怖かったから、
まったく感性の違う夫に一緒に来てもらった。
なぜこんなに緊張していたかというと
3.11のことが描いてあると聞いたから。
風の電話
2011年5月、東日本大震災から2ヶ月、偶然読んだ「風の電話」の記事に心をつかまれた。
正確には、記事に書かれていた詩に心奪われ、風の電話を作った鯨山の庭師の佐々木格さんに会いたいと思った。※リンク先からは残念ながら当時の記事は読めません。
私は会いたいと佐々木さんに手紙を書き、お返事をいただくことができた。
そして、当時勤めていた出版社の、理解のある社長と上司のおかげで、翌月大槌町へ行くことができた。
ところが、佐々木さんのご自宅へ向かう道中、今考えれば当たり前だが、釜石駅から先の公共交通機関がすべて麻痺していた。当然、タクシーも走ってなかった。免許を持たない私は、そこから先に進めず、途方に暮れた。現地に知り合いはいなかった。
たったひとつ握りしめていたのが風の電話の記事を書かれた朝日新聞記者の東野さんの電話番号だった。
そして、あろうことか、私は、東野さんに電話をした。そして、駅まで迎えにきていただき、佐々木さんのご自宅まで車で連れて行っていただいた。取材人としてありえないくらいの恥知らずのマヌケ野郎である。今でも思い出すと恥ずかしくて叫び出しそうになる。
瓦礫の中のバス停と女子学生
東野さんと走る道中、瓦礫の中に傾いたバス停を見た。そばには制服の女子学生がいた。灰色のアスファルトの中で髪をなびかせて立っていた。
その光景を、私は「見てしまった」と思った。
彼女が卒業し、社会人になり、ふつうに幸せに生きていく未来を頭の中に描き、それが現実になるように祈った。
それが現実になるように、私は何かしなくてはいけないと思った。
けれど、佐々木さんの企画を本にすることはできなかった。そして、すぐに他の仕事で忙殺された。
しばらくして私は結婚し、出版社も辞めた。
あの女子学生を思い出し、何度も「何か」を書こうとして、でも、書けなかった。
佐々木さんや東野さんが、ドジマヌケ野郎の私をあのとき招いて話を聞かせてくださったのは、私に伝えることを託したかったからだ。それがわかっていたのに、何もしないまま日々が過ぎた。
だから、東日本大震災という言葉を聞くたびに、後悔がのしかかった。
その間に、私は義理の親と同居し、二人の女の子の母になり、ますます日常に追われ、あの日見たあの光景や、その場にいた人たちの言葉を伝えることを、結局何もしないで、今日を迎えてしまった。
ただただ生きてきたことを許された
「すずめの戸締まり」を見て、震災でお母さんを失った主人公と、バス停の女子学生が重なった。
涙が止まらなかった。
そして、すずめを助けたいろんな人の姿に自分を重ねた。幸せを願い、ふつうの日常があることに感謝して、ただただ一生懸命に生きてきた人たち。その人たちの祈りを力に、すずめが世界を救う物語だと感じた。
私が何もできなかったと思い続けていた年月も、
もしかしたら意味があったのかもしれないと思えた。
ただ、この世界が幸せであるように祈るしかなかった無力な年月が。
死がすぐそばにあることを知りながら、ただこのひと時だけは生きたいと願った日々が。
ものすごく自分勝手な解釈だけれど。
この作品を作ってくれた新海監督に感謝したいのだ。
降り積もった後悔を弔ってもらった気がするから。
あの日からずっとつづく無力感を受け入れられるような気がするから。
近いうち、大槌町にもう一度行ってみようと思う。
今度はひとりじゃなく家族で。
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