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第二話 インド7

バンガロールの滞在で大変だったのは、やはり宿でした。

「ホテル セレクト」と言う名の宿は、インペリアルというちょっと小洒落た食堂の2階にありました。2泊で777ルピー、日本円にしておよそ1400円のこの宿へ移ってきたのは、やはりその安さに惹かれてのことです。もちろん、モノが安いのにはいつも理由があり、アプリでその点をよく確認せず予約した僕が悪いのですが、通された部屋には窓も冷房も付いていませんでした。

標高900メートルのこの高原都市は一年を通して穏やかな気候ということもあり、機材を背負って外を歩いても暑さはなんとか凌げるくらいです。そして、この地を訪れる日本人が「およそインドのようではない」などと形容するらしい整然とした街並みは、それでも歩いていればどこかに野良牛を見かけ、道路や歩道のところどころに陥没があり、けたたましい騒音は一日中止まず、日本では体験しようのない某のインドの常識に遭遇します。だから、僕にとってはこの街もインドの街であることに変わりなかったのです。しかし、それらにも徐々に順応し始めていた僕が改めて悩んだ理由は他にありました。

それは、僕に充てがわれた部屋の浴室から漂ってくるひどい異臭です。その異臭の元は、どうやら樟脳にあるようでした。この宿の運営者はそれを承知しているらしく、壁をくり抜いて雑に後付けされた換気扇が耳障りな音を立てながら異臭を廊下へ放出しています。

浴室の小部屋は背丈ギリギリに作られており、蓋も便座もない便器が備え付けられていました。壁に無理やり取り付けられたシャワーヘッドからは、弁の締まりが悪いのか、チョロチョロと水が垂れて床のタイルを濡らしています。その水は、床を不器用にただ掘っただけの不恰好な排水溝へと流れているのですが、どうやら配管を伝って例の害虫やネズミが湧くらしく、それらを抑えるためにこの樟脳を置いているようなのです。置いている、と言うよりは、無造作にばら撒いてあると言った方がふさわしく、これほどの量を必要とする敵が足元に潜んでいることを考えると、なんだかゾッとしてしまいます。汗だらけの体をシャワーで流す間も、ビクビクしながら何度も排水溝の方に目がいってしまいました。

「今後もっとひどい環境で取材することもあるかもしれない」
「辛い環境を求めて来たのだしこれも練習じゃないか」

そう自分に言い聞かせながらベッドに体を横たえるのですが、今度は強烈な匂いで次第に頭痛が催されてきます。宿を変えるべきかどうか。旅の終盤に至ってもそんなことで悩むのは嫌でしたが、うんざりしつつも「まぁこんなものなのだ」と必死に心をなだめます。このような状況の連続に、僕は抵抗するのを諦め、受け入れることを学び始めていたと言ってもいいかもしれません。それに、帰国まで残り2泊だということと、無駄な時間と出費をこれ以上重ねてはいけないような気もして、結局、この宿の世話になることに決めたのです。

「仕事は終えたも同然なのだ」

20名分の取材データ。僕にとってその実績は慰めの役割を担っており、ギリギリのところで心のバランスを保てたのかもしれません。パソコンの画面にはこの3週間で収録した人々の映像と音声のファイルがずらりとリストされていました。それをぼんやり眺めながら、インド滞在の日々を振り返ります。

ため息をつきました。それは安堵のため息でした。旅に出発した当初の不安はもうほとんど解消されていたのです。「仕事どうしようかな、なんてもう考えないのかもしれないな」「プロには程遠いかもしれないが俺もライフワークの一歩を踏み出したのだ」などと心のうちで呟きます。そして備え付けの古ぼけたブラウン管のテレビをおもむろに付けると、どういうわけか、ハワイのサーフィン番組が映りました。サーファーがボードを巧みに操って波に白い泡の軌跡を描く映像が、音楽とともに延々と流れます。特に興味はないのですが、目を奪われたまま思考は途切れがちになり、僕は徐々に眠くなってきたのでした。

「プロになったらこんなのも撮るのかな」
「だとしたらつまらないな」

緊張感の抜けた頭でそんなことを考えながら、テレビを付けたまま、靴も履いたまま、そのままの姿勢でいつの間にか眠りに落ちてしまったようでした。

チェンナイを出てからこの日の朝まで、僕はバンガロール・シティ駅から3キロ程の真新しいゲストハウスに滞在していました。こちらはゴルフ場の裏手にあり、閑静な住宅街の一角に開業したばかりの、穏やかに過ごすには心地のよい場所だったのです。

しかし、取材をするにも周囲にはこれといった店もなく、マハトマ・ガンジー・ロードなどの繁華街に出るには徒歩で1時間もかかってしまう場所にありました。3名ほどの取材を終えるまで、その道をどれくらい往復したかわかりません。毎日クタクタになるまで歩いたお陰で毎晩ぐっすり眠れはするのですが、それでも身体は全快とはいきません。気前よくタクシーを使えるほどの予算は残っておらず、できればもう少し街寄りの宿に移りたいと思い、検討を重ねた結果、1泊2000円の心地よい個室を引き払って、この「ホテル セレクト」へと移ってきたのでした。

バンガロールで取材したのは酒屋兼飲み屋の親父、建築現場で働く鳶職の青年、そして宿泊先のゲストハウスのオーナーの3名。残り2日のうち1日はアポを取ることに専念して、最後の1日で撮って回る。できれば2、3人。そう目論んでいたのです。

ところがその翌日、一日中繁華街を徘徊したにもかかわらず、「撮りたい」と思わせる人物に巡り会うことはありませんでした。それは最後の日も同様で、路地裏もくまなく歩いて回ったのですが、結局夕方まで誰にも声をかけることができず、「このまま帰国になるのかな」と肩を落として宿へ戻ってきたのです。「もう20人も撮ったのだから」という満足感がブレーキをかけていたのかもしれません。いえ、きっとそうなのです。そして、とうとうインド最後の夜を迎えて、なんとなく不完全燃焼に終わりそうに思えたとき、ふと、宿の真向かいにあるバス停で、火を使った屋台でテキパキと切り盛りしている青年が目に留まったのでした。

20時ごろ。バス停を照らす朱色の街灯は暗く、錆びた重そうなガスボンベを2つ積んだ屋台は、もし蛍光灯を吊るしていなければ、たむろする数人の男たちとともに闇に溶け込んでいるでしょう。この国のどこにでもあるささやかな風景ですが、カメラを向けたくなるような風情が感じられました。客はパラパラと、しかし途切れることはなく、バスを待っている間に夕飯を済ませようと立ち寄った人もいれば、手提げ袋に入れて持ち帰る人もいます。

くすんだ黄色のシャツの胸元を開き、髭を生やした彼の目元にはまだ幼さが残っていました。一瞬少年を思わせましたが、彼の左手の薬指にはリングがはめてあります。赤いティラカを額に押したヒンドゥー教徒の彼にとって、それが何を意味するのかまではわかりませんでしたが。

その青年がフライパンを振って作っているのはエッグライスと呼ばれるインド風のチャーハンです。辺りにはフライパンを擦る音が響き、調味料の焼ける香ばしい匂いが漂っています。その他にはドーサと呼ばれるインド風お好み焼きがあり、手際よく香辛料を振りかけて注文を捌く姿につい見惚れてしまいます。すると、向こうもカメラを抱えたまま突っ立っているこちらが気になったらしく、話かけるきっかけをくれたのでした。もしかすると、ただ注文の有無を問われただけなのかもしれませんが、取材のことしか頭にない僕はこれをチャンスと捉え、思い切って願い出てみたのです。他の客が待っている中で取材の話を持ちかけるのは少し気が引けたのですが、彼は詳しい説明を必要とせず、存外あっさり引き受けてくれたのでした。

小一時間が経って撮影とインタビュー収録が一通り済み、僕もエッグライスをもらうことにしました。一皿70円ほど。緊張から解放されて気が緩むと、「チャーハンはどこで食べても美味しい」などと月並みなことを思ってしまいます。人懐っこい顔をした彼は依然として僕に好奇心を寄せてくれているようでしたが、忙しく動き回る彼に遠慮して、というよりは言葉の壁によって会話らしい会話もないまま、距離が縮まることはなかったのです。僕は客の切れ間に礼を言うと、記事が完成したら送るという約束をしてその場を後にしました。

それから宿へ戻り、ロビーの窓際のソファに腰を掛けて、ガラス越しにその屋台を探しました。何事もなかったかのように彼は注文を捌いています。
僕はその晩、客が来なくなるまでその様子をじっと眺めていました。これでインド最後の取材が終わったのだと思うと、柄にもなく、なんとなく感慨深い気もしてきたのです。

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