京都の建築を支えてきた北山杉と文化的景観
京都市街から北西へ20km。北山方面に向かい、神護寺で有名な高雄を通り過ぎると、間も無く山間の小さな集落と出会う。
京都市北区中川北山町。
この中川周辺は"京都府の木"である北山杉の里として知られている。
北山杉は、古くは桂離宮・修学院離宮をはじめとする数寄屋や茶室、近年は一般住宅でも床間の床柱などに使われている木材だ。
その特徴は滑らかで光沢のある木肌で、磨丸太とも呼ばれる。一口に磨丸太といっても、よく見るとその仕上げには様々な表情がある。節が無く、上から下まで太さが一定であり、干割れが生じにくいことも特色だ。
北山杉の歴史は古い。室町時代には作られていたと考えられ、江戸初期には京都の産物として北山の杉丸太が明記されるようになり、京都の建築を支えてきた。戦後には住宅需要が高まったこともあり、生産量はピークを迎える。しかしバブル崩壊以降は和室や床間をつくる住宅が減り、また安価な外材の流通の影響もあり衰退気味となっている。
そんな中川は清滝川の両岸に集落が広がっている。川沿いに走る周山街道はかつて国道であったが、付近にバイパストンネルができると旧道扱いとなり、今は車もほとんど通らないが、静かで落ち着いた風情がある。
まずは町の外れにある中川八幡宮に参拝した。この神社、鎌倉時代に鎮守の杜として祀られたのが始まりとされている。幸運にもちょうど紅葉の時期だった。私はこうした小さな町の趣のある神社も好きだ。
神社には大杉がある。品種はシロスギとされ、この大杉から枝を取って挿し木をして苗木が作られ、山に植林されている。
その枝からさらに挿し木が行われ、それが数百年間ずっと続くこととなった。今ではこの木が北山杉の母樹として扱われている。
丁寧に枝打ちされた幹が真っ直ぐ伸びており、その姿がとても美しい。
30〜40年かけて成長した杉は伐採され、皮を剥がして乾燥させ、磨いて仕上げとなる。磨き作業は、表面に砂を付けて手で擦って磨く。
こうした一本仕立ての杉に対して、他の地域ではあまり見かけることがない台杉という仕立て方もある。もちろんそれも北山杉。一つの株から途中で数十本に枝分かれして、真っ直ぐに伸びる。細くて長い丸太を生産する台杉は、屋根を支える垂木などに利用されてきた。近年は庭園観賞用の樹木としても用いられている。
この立派な台杉は中川で最も大きい。樹齢は400年と伝えられている。
町の様子も見てみよう。
この地域独特の景観を構成している建物には、林業の町ならではの工夫がある。
例えば中川の隣の小野地区にあるこの倉庫は、軒が深く屋根も薄い。北山杉の製造は前述のように砂を使って手作業で磨くので、大きな加工機械や広い作業場を必要としない。建物機能のほとんどは木の乾燥や保管スペースが占める。
そのため構造的にはしっかりしているが、人が住むわけではないので、壁は少なく建具で仕切られ、屋根も雨が凌げる程度の簡素な仕上げだ。
2階建ての倉庫の場合は、1 階の軒下を作業場、
2階を乾燥・保管スペースとしていた。(この建物は既に倉庫としては使われておらず、現在は他の用途に転用されている)
こちらは中川の象徴でもある木造倉庫群。建築的に見ても美しい。ちなみに中川は明治の大火でほとんどの建物が焼けてしまっており、今の町の建物の多くは明治の大火後に建てられた。この倉庫も昭和10年(1935年)頃に造られている。
しかしこの倉庫、使われなくなって久しく、現在は老朽化が進んでいるそうだ。倒壊の危険もあり、立ち入ることもできない。修繕するとなるとかなりの資金が必要だろう。
こちらは個人の住宅に併設された倉庫。やはり軒が深く出ている。
初期の林業家には生産から販売までを家庭で行っていたところもあり、こうした家では住宅と作業場・倉庫が一戸の敷地内で完結していた。
さらには遠方から買い付けに来る業者のために、母屋の隣に宿泊できる離れ座敷を設けた家もある。
この部屋には北山杉がふんだんに使われている。つまり北山杉のショールームとしての機能も備えているのだ。
多くの家は山の斜面を段々状に整地した細長い場所に建てられているので、妻側が正面となった奥行きのある家屋となる。
家の内部は昔ながらの伝統的な和室だが、特徴的なのは山側と谷側にある2つの細長い庭。
"ツマド"と呼ばれる山側の庭には、隣の家屋の石垣を背景としながらも、山からの清水を活かした庭園が造られている。
谷側には"エンデ"と呼ばれる庭がある。隣の家屋は下にあるので、視界が抜けて、反対側の山を借景とした庭が広がる。切り取りマニアにはたまらない眺望だ。
余談だが見学した時、周辺は紅葉も圧巻だった。
農作がほぼ不可能な谷間の狭い土地、四季折々の様々な表情を見せる山、豊かな水、北山杉の需要と消費地である京都からの近さ、地形や作業性から成り立った独自の建築様式。
中川北山町の独特の景観は、これらの要素が組み合わされ、長い時間をかけて必然的に形成されたものなのだ。
こんな素敵なところに、古くても小さくても構わないので、週末の別荘などがあればなあと思う。それを少しずつ自分が好きなように修繕することが出来たら、それもまた楽しみだろう。
そして完成したら何をするこということもなく、この景観に囲まれながら、ただ一日を静かに過ごしたい。
ただし実際はどうだろう?
古い家をどう修繕するのか? 建築知識の無い自分には難しい。
コンビニも飲食店もない場所で、都会に慣れた自分に生活できるのか?
そして何より地元の方々と上手くやっていけるのか?
現実的には色々難しいか…。
さて、この「京都北山の文化遺産を残し、資源循環の新たな拠点を共につくりたい」と奮闘されている人たちがいる。その志に共感して集まった一般社団法人 北山舎の方々だ。
実は今回の訪問は、その北山舎で代表を務めていらっしゃる本間智希さんに案内して頂いた。これまでの解説は100%本間さんからの受け売りである。
この理念にもある通り、北山舎は「移住して地域を活性化しよう」とか「北山杉の栄光を取り戻そう」とか「北山を観光地化しよう」といったことを目的としているのではない。いや、移住もアリだろうが、そうした形にとらわれず、普段は都市に住みながらこの中川と往き来して(京都市街からは車で30分の近さ)、集落の人々としなやかな関係性を築き、様々な職種の人たちがそれぞれに持続的に実現できることを目指して活動している。
具体的には、北山舎では現在4棟の建物の保全に取り組んでいる。
修繕にあたっては、歴史を尊重しながら"北山らしさ"が磨かれるような保全を心がけている。作業も外注するのではなく、昔の慣習にならい、少しずつ自分たちの手で行う。お金もかかるが、年単位での時間もかかる。そして修繕や改修の現場を広く発信し、誰もが参加できる学びや交流の場を作ろうとしている。
建築系の大学や専門学校とも連携しながら、職人の技術を継承する場としても機能させている。この日も学生さんが実習として作業されていた。
新築ではないので、明確な図面があるわけではない。建物の状況を見ながら、どのように修繕するのか考えることも”教育”の一つだ。
また、地域内外の人たちが交流できる場づくりや、アーティストやクリエイターのアトリエとして運用も始まっている。
ギャラリーとしての活用は面白いかも。「こんな不便な場所にギャラリー?」という意見もあるかもしれないが、建築探訪同様、アートファンは企画が良ければ多少不便な場所でも問題なく出かけていく。少なくとも私はそうだ。
今後は地域住民からの建物の修繕やメンテナンス、空き家の見守りや活用に関する相談、「北山で暮らしたい」「仕事場にしたい」など移住や活用を希望する人たちのマッチングやマネージメントに関する相談など、あらゆる窓口の受け皿となることを目指しているそうだ。
日本の多くの地区と同様に、中川でも高齢化が進んでいる。2020年現在、町の人口は86世帯164人、老年人口比率は6割を超える。そうした状況で新しい人々を迎えることは、地域の人にとっても必ずしも悪ことではないと思う。
私も一つ「しなやかな往来」についてでも相談してみようかな?
最後に改めまして本間さん、ご案内ありがとうございました!!!
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