服について

服の「良さ」について考える日々である。服と生活は切り離せないほど密着している。裸で街に出るわけには行くまい。

浮浪者から大富豪まで服を着る。私も服にこだわりを持ち、常に気を配っている方だと思う。

自分の服に気を配り始めると、他人の服にも意識がいくようになる。あの人はセンスが良い、悪いといったように。

この美的感覚は明らかに後天的なものだ。私も子供の頃は何を着ていても気にならなかったし、反対に思春期の頃はどんな服を着て出かけるか葛藤する事もあった。

服において「美」とはなんだろうか。大人になりお金を持て余していても、服装にこだわりを持たない人は多いように感じる。つまり服における美の追求は普遍的な課題ではないのだろう。

反対にお金をあまり持たないような学生が生活費の大半を服に費やしている光景も見られる。各人がそれぞれ独自の服装感を持ち、その最低限から下回らないように服を選択している。

やはり生活における周囲の人間による影響があるのだろう。友人同士服装が似ていくのはよくある光景だ。周囲の人間によって独自の服装感が確立されていく。

この集団の中で服装が持つ価値というのはやはり「権威の誇示」だと考える。周囲の人間と同じような服を着るという仲間意識や、身なりを整えない人たちとの差異を図ることで自身の上位性を主張している。

この仲間意識と上位性を簡単に得られるものが流行に乗るということだろう。価値は分からなくとも、周囲の人間に認められることができるため手軽に地位を確立できる。流行が浸透しすぎると仲間意識は広がり過ぎて薄れ、上位性もなくなる。そこで新たな流行が生まれ、繰り返される。

私はこのように流行だけを追う服装を美しいとは思わない。なぜならこの服を着る人間が求めているのは周囲からの評価と安心に向いていて、服そのものを見ていないからだ。
そして、皆同じであることが善で逸脱するものを悪とする価値観を促進し、また個性の決定を他人に委ねる思考になる。

私が思う服の良さは、結局は人間の持つ良さなのだと感じる。ここまで服について語って来たが、人間が関与していない服はただの布なのだ。

それは人間が美を探究し作り出した服でも、選んだ服でも構わない。人間の個性は、本来完全なる独自だ。目にして来たもの、耳にして来たもの、口に入れたもの全てが独自である。しかしそれを隠し周囲に没落した時、人間の個性は失われ服が持つ個性を受け取ることができない。

とは言え、所詮ただの服装なのだ。本人が満足するならなんでも良い。他人がどのような服装をしようと自由である。

それでも、なにかを追求することはとても健全な楽しさだと思える。理解が深まれば些細なことにも楽しさを覚える。


いろいろ語ったが、服の「良さ」は、素直な楽しさだと思う。音楽や絵や文学のように、人の心を動かす力を持っている。それらを一般的と言われる価値判断ではなく、素直で赤裸々な自己により追求していくようなことが大切なのだと考える。

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