岡崎はジャズの街なんですよ

 

 2015年に竣工した『岡崎の曲屋(まがりや)』という住宅の設計、現場を通して何度も岡崎には通っていたけれど、いつも時間に余裕が取れなくて現場以外の場所をほとんど訪れたことはなかった。

 今回ひょんな繋がりで岡崎の建築相談会に呼んで頂くことになり、2日目の朝、早起きして(ごく一部ではあるけれど)街歩きをすることができた。城下町にルーツを持つ街並みの一部を感じながら岡崎城まで、約1時間ほど歩いた。

 豊富な水を湛えて流れる乙川が、この街の形成に大きく関わったのだろうと思う。それに寄り添うようにつくられた街、地形を生かしながらの築城など短い時間だったけれど伝わってくるものがありました。
そして、その川のリバーフロント(水際)を人々にとって「より近いもの」にしていこうという整備が徐々になされているのも印象に残ります。

 実は、初日の相談会が終わり、懇親会が終わったところで「岡崎はジャズの街だから、何か聴きに行こうか」という話になった。
調べてみたところ、とあるジャズクラブで今夜演奏をしているということになり、参加していた建築家数名で出掛けていった。

 この日の編成はピアノトリオに女性の管楽器奏者が2名(トランペット+サックス)。様々な色合いのスタンダードを2部にわたって演奏していた。

ジャズは昔から良く聴くし、自分でも下手くそながらギター演奏もする。
曲のテーマがあって、それが終わると各パートのソロ(即興演奏)になってまたテーマに戻って終わる。若干のイレギュラーはあれど、ほとんどこの「形式」は決まっている。
「形式」は決まっているけれども、各演奏者の即興演奏が毎回変わり、それを支えるプレイヤーの演奏も影響されながら変化していくので同じ音楽が再び演奏されることはない。
昨夜は改めてそんなことを考えながら演奏を聴いていた。

 ソロを始めるプレイヤーにとって、自分の即興演奏部分は「旅に出るような」ものだと良く思う。同じコード進行の中で、どんな道筋を通って、どこに行こうとするのか?
それに寄り添うことが、聴き手側の楽しみであったりもするのです。

即興演奏というのは面白いもので、演奏者のメンタルが音に現れる。昨夜の演奏を思い返しても
「最初からテンション落とさずに最後まで走る」
「いったん落ち着かせて、少ない音から徐々に持ち上げる」
「一瞬迷った」
「このフレーズをどんどん展開させていってどこに行けるのか」
「違う道に行ったようにみせて、ふと戻ろう」
「よし、もう一息先に行けるぞ」…
などなど、聴き手はある意味勝手に受け取っていくわけです。
そして、そこには正解はないので受け手の感性フィルターによっても受け取り方が変わる。

 では、即興演奏を「支えているもの」は何なのだろう?
それは、実はそれまでに費やした地道な蓄積なんだろうと良く思うのです。
どの道に行こうか?と考えるとき、瞬時に自分で選び取れる「道」はいつか通った道、通ろうとイメージしてきた道なんだろうと思います。
それが、その場でのインスピレーションで呼び覚まされ、組み合わされ、編み込まれていく。
だから、自分のような素人は圧倒的にその研鑽が少ないので分かれ道が少ない。それは色数の少ない色鉛筆のようなものです。

 人生をかけて音楽を追究している人の演奏に感じる「美しさ」は基本的に捧げてきた膨大な時間と労力にあるのだと感じます。その次にその人の「個性」。
「個性」が際立つためには、そのベースになることが必要ということですね。

かくして、昨夜はそういう「美しさ」を享受しつつ、楽しいひとときを過ごしたのです。

ジャズについて書いていて、だんだんと
「これは建築についても同じだなぁ」と思っている自分がいます。
楽しくアドリブが奏でられるよう、やはり日々研鑽していかなくては…


廣部剛司


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