心の芯。

教養や知識は生きるための知恵になるから、「知らないこと」より「知っていること」を増やしていこう。ってなんとなく思って生きてきた。

家から一歩外にでれば、溺れるくらいの情報洪水に巻き込まれるのに、自分が判断したいことに限って不十分な情報だけで瞬間的に決めなきゃいけないことが多い。

家の中に居ても、家族と自分の価値観が違えば、その根底にある考え方に影響を与えたものは何かを知りたいし、それを知っていれば分かり合う方法がが見つかるかもしれないって思ってた。

だから、せめて自分の意思決定の助けとなるようなたくさんの知識を得ることが大事だと思ってた。

ただ、最近思う。

人について知ろうと思えば思うほど、国も歴史も政治も自由だろうが平等(社会主義)だろうが宗教(相容れない価値観・信念)だろうが、結局は自分、あるいは自分と同質な狭い仲間内だけが良ければいいっていう利己主義な生き物なんじゃないかって。

そしたら人に期待をしなくなってきた。

人間なんて所詮こんなものだろうってどこかで冷めていって、ちいさいころになんとなく感じてた生きることに対する期待感、わくわくするって感情がだんだんなくなってきた気がする。

厭世的でシニカルで、ちょっと斜めから世の中を見たほうが、心が保たれるみたいな。

まぁ東洋哲学的に、そもそも心と自分っていうのは別物で、心=自分って同一視している時点でちゃんちゃらおかしい、のかもしれないけど。

ただ残念ながらまだそんな悟りを得るほどには至ってないし、そもそも悟りを得たとしても人生は急に変わらない。

当たり前に過ごす日常の中で心が感じる痛さや悩みは当然あって、それを自分じゃないって映画やドラマを見るように客観視できたとしても、自分に降りかかるトラブルを解決したり乗り越えるのは自分なんだから、結局なんとかしなきゃいけないわけで。

衆愚政治に踊らされるのも古代ギリシャから何も変わってないし、と思えば、第2次世界大戦後にこれまでの歴史を学んだ最も進んだ考え方で作られているはずな国自体が物凄い残虐なことするとか、つくづく人間って醜いし、未成熟だなぁって思う。

でも一方で、理想に燃えた人だったり革命起こしたり、「こうあるべき!」っていう思想持った人もいなかったわけじゃない。

ただそれも、完璧とかこうあるべきとか全体最適とかを緻密に計算してたわけじゃなくて、仮にそう思ってたとしてもその人の認知範囲でだけ完璧なだけな気がする。

視点を上げたり違う角度から見たらボロがある気がするし、短期的にはよくても長期的にはヤバイことになったりとか、不整合がどこかに生じてるものなのかもしんないなって思う。

じゃ、めちゃくちゃすごい歴史の偉人でさえ無理なんやから、ましてや俺なんてもう何したってうまくできるはずないって、何にもしないで部屋に引きこもって人生諦めるか、「私は人のこと、世の中のことわかってますよ」的な顔して結局何にもしない評論家みたいになりたいかっていうと、なんかそれは違うんじゃないかっていう心の奥から湧いてくる違和感はまだ残ってる。

この心の奥から湧いてくる気持ちこそが一番大事なんじゃないかって思う。

それをなんて名付ければいいかわからんけど。心の声っていうか直感っていうかなんか自分の芯みたいなもの。

それってもちろん無意識的にこれまでに得た知識や経験が作用してるかもしれんけど、俺を俺足らしめてるアイデンティティで、その気持ちのままに行動を重ねていくことが生きるってことなんじゃないかって思う。

ただ、俺の場合、それってろうそくに灯った火みたいなもので、自分や家族に降りかかるいろんな出来事だったり、ドラマティックにしたがる報道を聞くとすぐに消えてしまう。

最近火が消えてから、もう一回付くまでの回復する時間がどんどん長くなってきてる気がしてそれがすごく嫌。

もしかしたら、人生死ぬまでこの繰り返しって思うともう疲れてきて、段々へたれてきてるんかもしれない。でずっと消えたままになってしまったらそこで俺の精神的な成長は終わるから、ある意味人生終わるのと一緒なんかなって思う。

なんていうか別にギラギラしてたいとか、何歳になっても青春だ、とか心が若いって言われたいとかそういうことじゃないんやけど、そんな風にだけはなりたくない。

だから俺にとって自分の心の声とか、その瞬間に頭で考える前に感じることってすごく大事な気がする。

知識はとても大事やって思うけど、五感、六感で感じることを大切にしたい。

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