見出し画像

ジェフ・ポーカロとジョン・ロビンソン〜1980年と1981年の間に何があったのか

1年の受験浪人の末に晴れて大学に入学したのが1982年4月、1年半ほどの受験勉強期間の間にに世の中の音楽事情が色々変化していてしばらく浦島太郎状態になる。一番異変を感じたのが「TOTOっぽい音が氾濫していた」ことだ。

TOTOのことは高校在学中の頃から存在は知っていた。楽器系の雑誌「プレイヤー」とか「ロッキンF」とかもうそのころは「ギター・マガジン」が創刊された頃だろうか。リー・リトナーやラリー・カールトンやジェフ・ベックに混じってギタリストのスティーヴ・ルカサーの紹介記事がちょいちょい載っていたからだ。TOTO自体は日本ではまだそんなに売れている感じはしなかったが、マイナーな音楽志向にひたすら突き進んでいたイキった高校生だった自分がヒットチャートの音楽を知らなかっただけと思う。当時はボズ・スキャッグスとかグラミー賞を取ったクリストファー・クロスらのAOR勢とTOTOの結びつきとかもよく分かっていなかった。

しかしアマチュアバンドのライブを見に行くとTOTOの曲を演奏するバンドもぼちぼち見かけるようになり、また色んなアーティストのサウンドの表現の中に”TOTO風の”という形容詞がつくようになる。よく覚えているのがグラハム・ボネットを迎えポップになったレインボーのアルバム「ダウン・トウ・アース」も当時は”TOTOやジャーニーなどを意識した〜”みたいな表現をされていた。自分の中で決定的だったのは人気ギタリスト、CHARさんがLAに渡りTOTOのメンバーたちとアルバム「U・S・J」を作ったことである。当時はまだエアプレイのことは知らずデヴィッド・フォスターのことは知らなかったが「Smoky」のポリシンセのリフと後半のピアノソロはすごくかっこいいと思ったものだ。

が、当時の自分には「U・S・J」ではジェフ・ポーカロやスティーヴ・ルカサーのプレイはそれほど印象に残らなかった。特にジェフ・ポーカロのドラムはラリー・カールトンの「ルーム335」とかトミー・ボーリンの「炎のギタリスト」で叩いていたことは知っていたが、なんか癖はないけど線の細い音のドラムという印象だった。今となってはとんでもない理解不足だが、当時はスティーヴ・ガッドやハーヴェイ・メイソンの華麗な16ビートやまたはビリー・コブハムやナラダ・マイケル・ウォルデン、フィル・コリンズといったパワー&スピード誇るをスーパードラマーと崇めていた頃だ。当時の自分にとってはジェフ・ポーカロはシンプルな、言ってみれば平凡なビートでこなす感じの西海岸のセッションドラマーといった印象だった。一つだけ勘違いだったのがトミー・ボーリンのアルバムのお気に入り曲「ホームワード・ストラット」はナラダ・マイケル・ウォルデンが叩いているものだと思いこんでいたがこれは実はジェフが叩いていた。当時は「ザ・グラインダー」「ティーザー」のハイハット・オープンクローズを多用するチャラめなドラミングと同じドラマーとは思えなかった。ハイハットを両手でチキチキやってサビでオープンクローズするような安易な16ビートをチャラいと思っていた頃だがジェフ・ポーカロがあれを片手でやっているなんて子供過ぎて知る良しも無かった。

トミー・ボーリン「ティーザー〜炎のギタリスト」もボーナストラック満載のスペシャル盤がSpotifyでも聴けるようになってました。

また同時に耳に入ってきたTOTOのサウンドも自分にとってはかなり違和感があった。多分「I'll Supply the Love」と「Hold The Line」を耳にしたのだと思うけど平行移動するギターのリフを中心にした曲の構成にとても変な感じを憶えた記憶がある。2ndアルバム「Hydra」の「St.George and the Dragon」のサビとかにも同じ違和感を感じた、これで曲を終わらせていいのかな?みたいな。あと8分音符で連打するアコースティックピアノも馴染めなかった。そしてその「TOTO風サウンド」が他のアーティストに侵食してくる感じも気に入らなかった。当時は受験勉強が最優先だったので世間のAORブーム(当時はまだAORという言葉がなくて”ソフトアンドメロウ”って言われていたと思う。)にほとんどタッチしなかったが、ジェネシスの「Misunderstanding」やグレアムエッジバンドで活躍したギタリスト、エイドリアンガーヴィッツのソロアルバムみたいにプログレ系の領域にも侵食しつつあるのを感じていた。ずいぶん後になって英国のプログレッシヴ・ロックと米国のAOR系のアーティストの間にただならぬ音楽的影響と人脈の交流があることが分かるのだがそれはまたいずれの機会に触れてみたい。率直に言って当時はまたもや子供過ぎてジェフ・ポーカロのドラムの革新性やグループとしてのTOTOの先進性も全く分かっていなかった。

そしてもう一つのポップス市場のリズムの変化が新たな感覚のダンスビートに変わっていたことである。もちろん高校時代の「サタデー・ナイト・フィーバー」やアース・ウィンド&ファイアーとかのディスコブームは聞いていたつもりだ。だが1981年〜1982に於いてはもっと違う感覚のダンスビート=4つ打ちに変わっていたことだ。高校時代のドラマーだったM野君は現役で大学に合格し一足先に大学生活を楽しんでいて受験後に久しぶりに再会して「大学だとみんなこれ聴いて踊っているぜ」と教えてくれたのがクール&アンド・ザ・ギャング「サムシング・スペシャル」とクインシー・ジョーンズの「愛のコリーダ」だった。クール&アンド・ザ・ギャングもクインシー・ジョーンズともにM野君といっしょに自分の父親のジャズコレクションのレコードで愛聴していたアーティストだったが、M野君が聴かせてくれたレコードは全く別の音になっていた。「サムシング・スペシャル」のプロデュースは大好きだった「スカイ・スクレイパー」「スーパー・ストラット」のデオダートだったがそんな片鱗が全く感じられなかった。

そしてその両方のアルバムから聴こえてきたのはひたすら4拍子を踏み続けるバスドラム、ハイハットは片手で8分音符を刻みシンコペーションや仕掛けやキメはない。ひたすらシンプルなドラムパターンだった。細かい刻みは他の楽器に任せて全体で16ビートになる感覚、自分たちが高校時代に突き詰めていたスティーヴ・ガッドのドラミングみたいな手足を全部バラバラにしてドラムの全キットを使って16ビートを表すことが時代遅れになっているような気持ちに襲われた。特にクインシー・ジョーンズの「愛のコリーダ」で叩いていたやたらバスドラの音がデカいドラマーが気になった。前作「スタッフ・ライク・ザット」で叩いていたスティーヴ・ガッドはもうそこにはクレジットされておらず、ジョン・ロビンソンという全く知らないドラマーがクレジットされていた。そしてクインシー・ジョーンズがプロデュースしたアルバムを聴きまくった〜マイケル・ジャクソン、ジョージ・ベンソン、ブラザース・ジョンソン、パティ・オースティン〜ほぼ全部、このジョン・ロビンソンが叩いていた。もうスティーヴ・ガッドやハーヴェイ・メイスンは叩いていなかった。

M野君が「ハービー・ハンコックだってもうこんな感じなんだぜ」と高校時代「ヘッドハンターズ」や「スラスト」を聴きまくったハービー・ハンコックだったが彼が聴かせてくれたのは「ライト・ミー・アップ!」だった。そこで叩いていたのもやはりジョン・ロビンソンとジェフ・ポーカロだった。ドドタッ♪というピックアップのフィルインとそれに続く機械のようにキレイに歪んだ伸びやかなギターのイントロに大きく時代は変わってしまっていたと気付かされたのである。

最後まで読んでいただいたありがとうございました。個人的な昔話ばかりで恐縮ですが楽しんでいただけたら幸いです。記事を気に入っていただけたら「スキ」を押していただけるととても励みになります!