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「レット・イット・ビー」と東急プラザと私

「ゲット・バック」見ました!動画系サブスク見る時間はあまりないのに頑張ってディズニープラスに入りました。

ディズニープラスの広告に「ゲット・バック」が見れるって一行も書いていなくてネットで探しても11月25日(木)・26日(金)・27日(土)ディズニープラスにて3話連続独占見放題で配信!のニュースばかりで公式には配信されていることが一行も書いていなかった。何故か自分では見つけることが出来なかったので他のユーザーの方の入会のガイドを見て1月1日に入会してみた。そして入ってみたら「ゲット・バック」はどこにも無かった。ホーム画面から「ビートルズ」「ゲット・バック」とか入れても全く出てこなかった。もしかしたら「年齢による視聴制限」設定なのかと思い全部試してみたが少しも出なかった。もしかしたら本当に11月25日(木)・26日(金)・27日(土)の3日間だけの限定配信なのかと思ってしまった。

翌日、問い合わせチャットにたずねてみるとやはり「年齢による視聴制限」が原因らしくそこを指示通り再設定してみたら10分ほどたって急にトップバナーに「ゲット・バック」が表れた。昨日自分がいじって一切表れなかった「ゲット・バック」のタイトルも作品一覧に出てきた。自分の設定が悪かっただけかと思うがあれは一体何だったのだろう?

私がビートルズを初めて認識したのは1970年の春ぐらいのころだったと思う。当時は世田谷の上馬に住んでいて父の仕事で埼玉県から東京に出てきて初めての春の季節だったと思う。その頃の自分はイギリス製のミニカー、マッチボックスが好きでいつも父が買ってくれたものを眺めているだけだったがは恐らくお年玉を貯めて自分の意思で大型のミニカー〜確かはしご式消防車みたいなものを買いたいと思い一人でバスに乗って渋谷の東急東横店にでかけた時だと思う。

昔話で恐縮だが自分が住んでいた世田谷の上馬はけっこう陸の孤島でまだ新玉川線(今の田園都市線)も開通しておらず渋谷から出ている世田谷区役所行きバスを使うしか無く、当時はまだ首都高速3号線も渋谷で終わっていたため246号がその延長工事のため常に渋滞しており渋谷に着くまで1時間近くかかっていた記憶がある。さらに言うと三軒茶屋の三叉路交差点に旧玉川線と世田谷線を接続する線路の跡が残っていた頃の昭和45年のころだ(どんだけジジイなんだ)。でも今でも靴のCHIYODAとエコー通り商店街は変わっていなくてたまに行くと懐かしい気持ちになる街です。7歳の子供にとってはそれだけ渋谷に出かけるのがとても大冒険だったわけです。

当時ミニカーのマッチボックスは子供にとっては憧れのブランドで(まだトミカは存在していなかった)イギリス製の匂いのするマッチボックス=マッチ箱のオシャレな箱に入った実車そのもののリアルさを追求したミニカーで売り場も専用のマッチボックスコーナーが当時の東急東横店にあったと思う。渋谷西武でも売ってはいたが専用コーナーは無かったはずだ。その中でいつも買ってもらっている小さな300円ぐらいのミニカーでは無く大型の確か1500円ぐらいだったはしご車を自分のお小遣いで購入してとても興奮していた記憶が残っている。お姉さんにマッチボックス専用の手提げ袋に入れてもらい意気揚々と帰りのバス停に向かったのだが何故かその時バス停の向かいにある「東急プラザ」に入っていったのであった。

(イギリス製の〜と書いたが当時の子供の私はイギリスもアメリカもフランスも区別が付いていないすべて「外国」だった。マッチボックス・シリーズを発売していたイギリスのレズニー社は1980年代に経営破たんしその後マッチボックスシリーズはアメリカの玩具メーカー、マテル社から発売されていたことを今回知った。)

その時何故「東急プラザ」に入っていったのか理由は分からない。当時の東急プラザの1階には「アートコーヒー」が入っていてそこの「ホットドッグ」がお気に入りだったから食べたかったからなのか、でもまだ7歳の子供だったので「買い食い」的な行動は親に怒られるから出来なかったはずだ。記憶は定かではない。ちなみにその「アートコーヒー」には「ホットドッグ」と同時に「ハンバーガー」も売られていた。この「アートコーヒー」が人生初の「ハンバーガー」との出会いだ。マクドナルドが翌1971年に日本進出するより前のことだったが当時の子供舌の自分には「ハンバーガー」より食べ慣れた「ホットドッグ」の方が好きだった。結局その時に「アートコーヒー」で「ホットドッグ」を買ったかどうかは記憶に残っていない。

なぜ「東急プラザ」の記憶が残っているかと言うとその時の東急プラザのエントランスに鳴り響いていた音楽が強烈に印象に残っているからだ。その音楽は外国語の曲でピアノの物悲しい伴奏で「メルシー、メルシー」という言葉を連呼していた。子供だったのでその外国語が英語なのかフランス語かも理解できなかったが知っている外国語「メルシー」と歌っているように聞こえた。その「メルシー」連呼のあとになにかとても神聖な雰囲気の楽器であるメロディが挟み込まれた。その瞬間「東急プラザ」のエントランスがとても広い空間のように感じられ、それは7歳の子供にとって初めて経験した感覚だった。そしてその外国の音楽はどうやらラジオからの音声だったようでラジオのアナウンサーがとても緊迫した様子でその曲を紹介していることも覚えている。そしてなぜかその曲はその場所で繰り返し再生されていたような記憶が残っている。その「メルシー」を連呼する曲の真ん中に挟み込まれた空間が急に広がるような箇所は一体何だったのだろう。せっかくお小遣いを貯めて買ったマッチボックスの「はしご車」のことは割とどうでもよくなるぐらい「あの曲のあの箇所のメロディ」のことを帰りのバスの中で考えていたことを覚えている。

その曲がビートルズの「レット・イット・ビー」という曲だと言うことを知ったのはそれから数年以上経ってからのことだったと思う。父の仕事の都合で初めての異文化の地、大阪に引っ越して家の近所にレコード店がありそこに「レット・イット・ビー」のポスターがずっと貼ってあった。また転校した先での小学校の担任の女先生が今思えばロック好きな長身でパンタロンとかキメた先生でビートルズとかエルビス・プレスリーが好きだったのでそれでビートルズの名前を覚えた気がする。洋楽のアーティスト名は子供だったので分からなかったが家庭訪問時に父のオーディオから母の洋楽ポップス好きで話が盛り上がったらしくそこで聞いた名前をあとから教えてもらい知ったのが「ビートルズ」の名前を認識した最初だった出来事だったと思う。

回りくどくなってしまったが今思えばあの日の東急プラザで流れていたのは1970年3月か4月の「ビートルズ解散のニュース」でシングル「レット・イット・ビー」が繰り返し再生されていたのである。子供だったので「レリピー」が当時知っていた僅かな外国語の単語「メルシー」に聞こえ、空間が広がった様に聴こえた「あの箇所」はビリー・プレストンの弾くハモンド・オルガンの間奏のところだった。たった4小節のあのハモンドオルガンのパートが7歳の少年にはとても長くて印象的な音の空間に聴こえ強烈な印象を残したのである。この悲しいのだけど応援されてるような支えられているような感覚は50年経ってとても大きな人生の体験だったことが分かる。

これが自分が「ビートルズ」の音楽に直接触れ合った体験ではあったが、その前後にビートルズの曲自体は知っていた。母が好きだったポール・モーリア、レーモン・ルフェーブルなどのイージーリスニングやセルジオ・メンデス、クインシー・ジョーンズなどのビートルズカバー曲が父のオーディオから繰り返しかかっていたし、なにより人生で一番最初に好きになった洋楽アーティスト、カーペンターズもビートルズのカバーをたくさんやっていた。そのあたりを理解していったのは確か小学4年生の頃だと思う。ただあの「東急プラザ」の1階で聴いたような衝撃をまだ自力で見つけるのはもう少し時間がかかっていたように思う。「これビートルズの曲だったのか」と後で知った曲がたくさんあったものだ。

「東急プラザ」とビートルズにはもう一つだけエピソードがある。自分では無くて私の母の話で恐縮だが当時の東急プラザの3階に東京ではまだ珍しい「ピザ」を食べさせるレストランがあり小さい妹を連れて食べに行った帰り東急プラザの前でオノ・ヨーコを連れたジョン・レノンがいたらしい。母は「あっ、ジョン・レノン!」と思ったらしいが周りの人はだれも気が付かなったらしくそのままタクシーを拾ってどこかに行ってしまった。妹に「ジョン・レノンよ」と言ったらしいが小さかった妹はわかるはずもなく今でも『「あなたはジョン・レノンを見たのよ」と母に言われても知らんがな』という笑い話になっている。そんな当時の渋谷駅前もどこかのどかな雰囲気が残っていたように思う。


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