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自己本位と本質

おはようございます。

ひろteamNです。

「自己本位」とは夏目漱石の書した有名な言葉です。

私はこの世に生まれた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。(夏目漱石『私の個人主義』中公クラシックス版より)

 夏目漱石は、若い頃から内面に
「自分が何をしたいのかわからない」という
「空虚さ」を抱えていたようです。

 大学で英文学を専攻して学んでみても、
漱石には、文学がわかったという手応えが得られない。
卒業して成り行きで教師になってはみたものの、
その仕事にもまったく興味が持てない。
そんな悶々とした状態で過ごしていたところに、
突然文部省から英国留学を命ぜられたのです。
漱石33歳、明治33年のことでした。

 慣れぬ異国の地で、彼の「空虚さ」は解消するどころか日々増幅するばかりで、いくら本を読んでみても、ロンドン市内をうろついてみても、
一向に晴れる気配はありませんでした。

ロンドンに留学して1年が過ぎ、陰鬱な苦悩がいよいよ極まった頃、
漱石はある大切なことに気づきます。

自分はこれまで「他人本位」だったのではないか、
そして、それこそが「空虚さ」や不安の根本原因だったのではないかということです。

今まではまったく他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめにただよっていたから、駄目であったということにようやく気がついたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似をさすのです。(~中略~)ましてやそのころは西洋人のいうことだといえば何でもかでも盲従して威張ったものです。だからむやみに片仮名を並べて人に吹聴して得意がった男が比々(どれもこれも)皆是なりといいたいくらいごろごろしていました。(~中略~) つまり鵜呑みといってもよし、また機械的の知識といってもよし、とうていわが所有とも血とも肉ともいわれない、よそよそしいものをわがもの顔にしゃべって歩くのです。しかるに時代が時代だから、またみんながそれを賞めるのです。(同前)

 漱石のこの「他人本位」についての言葉は、大正3年の講演で語られたものですが、現代においてもまったく古さを感じさせません。

むしろ今SNS上に蔓延していることを言い当てています。

「理が非でもそうしてしまういわゆる人真似」

「むやみに片仮名を並べて吹聴して得意がる」

「鵜呑み、機械的な知識なる

よそよそしいものをわがもの顔にしゃべって歩く」

「またみんながそれを褒める」

SNS(Twitter)を日々覗いていると、

「自動収益化、仕組み化で月●万円稼ぎました」

「宜しければ公式ライン・メルマガに登録を

今なら無料で〇〇プレゼント」

と言うツィートをそれこそ腐る程、日々拝見する。

それで、その人のブログなどを覗いてみるが、

本質が書かれていない。

余計モヤモヤが溜まる印象ですね。

言うなれば、

人を10人集めて、1万円稼ぐ方法を教えるから、1人千円よこしなさい。それで実際に千円を払って教えを受けると、同じ方法で人を集めて、1人千円づつ払わせなさい。

となる。

全く何を持って稼ぐかの本質がない。

では、そんな現状から漱石はどうやって脱出したのでしょうか?

「自己本位」への目覚めです。

私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってからたいへん強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました。(~中略~)その時私の不安はまったく消えました。私は軽快な心をもって陰鬱なロンドンを眺めたのです。(同前)
ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたははじめて心を安んずることができるのでしょう。(~中略~)もし途中で霧か靄(もや)のために懊悩していられるかたがあるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘り当てる所まで行ったらよかろうと思うのです。(~中略~)だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛にお進みにならんことを希望してやまないのです。もしそこまで行ければ、ここにおれの尻を落ちつける場所があったのだという事実をご発見になって、生涯の安心と自信を握ることができるようになると思うから申し上げるのです。(同前)

夏目漱石は「自己本位」に目覚めて

初めて小説家になろうと決意したのです。

この漱石の熱のこもった言葉は、100年近く経った現在でも、
私たちに新鮮に、力強く響いてきます。

やりたいことを見つける、進むべき道を見つける。

もし見つけることができたなら、とことんやってみる。

もし、不安や心配事があったとしても、

どんな犠牲を払ってでも、やれるところまで

やり切ってみる。

その先に生涯の安心と自信を得ることができる。

と強く訴えているのです。


最後までご愛読ありがとうございました。

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