風と火花/少年ギター外伝
風を見たことがあるんだ。
初老の男が呟いた、
たぶん、あれは風だったと思う。
国鉄のガード下を通り過ぎて、商店街へ向かう細い路地ですれ違った背の高い痩せたふたりの若者。
ギター弾く真似をして音楽の話をしているようなふつうの学生。ショルダーバッグと図面ケースを肩にかけていた建築学部にでもいそうな。
僕は小学生、AAAを買いに、スリーエース?
ああ煙草さ、お使いでね。
電車が通過する、そのときなぜか振り返ったんだ、
1人の男が倒れる影、2人の男が走って曲がる影。
怖くて商店街へ走ったさ。帰り道、警察が現場検証をしていた、パトロールカーと救急車が止まっていた。
赤い回転灯が怖かった、何か聞かれるんじゃないかと思い、まっすぐ前を見て通り過ぎた。
あいつらは風だとずいぶん後になって気づいたんだ。
君は生まれる前だけど、1968年あたりから歌謡曲や小説のモチーフに風というフレーズが使われることが流行っていた。
人々が力を合わせれば国のような大きな存在を変えられると信じていた考えが打ち砕かれてゆく時代の変わり目だったんだ。
その多くは空虚さの表現でただ吹いている風、時々は空気の温度差で生まれる風の力のように或る特別な力を持った何かを表現するような風。
今でもみんな黙っていてそのことはもう忘れてしまっているけれど、きっと知っていたんだと思う、風という暗号で呼ばれていた存在のことを。
ひとのいない街角や自宅の前の暗がり、ドアの隙間からすうっと入ってきて製図ケースやコートの袖から抜いた鉄パイプで裏切り者を暗殺する存在。
いや、聞いたこともないし、調べようもないからね、単なる僕の想像なんだけどね。
建築学部の学生を装った格好で
製図道具や鉛筆を削る肥後守、あ、小さなナイフのことだけど、鉛筆の芯を5cmぐらい長く削った2H、コンパスやディバイダーの針、戦闘力あるよね、持っていても怪しまれないし。怪しいとしたら大学自体授業やってないそんな時期なのに、、。
てんとうむしの結婚式の歌、ピンクのあかりに照らされるカーニバルのパレードの歌、見つからない探し物より僕と踊りませんか、ふたりで表札の名前を消していつかまた会えたらといって別れる歌、
あの時代の人はその歌の意味を読み解けたからヒットしたんだと思っている。僕はね、君には何を歌っている歌なのかわかりますか?
初老の男が口ずさむ、なんとなく知っているような古い昭和の歌だった。
この歌たちは、1971年から1974年につくられているんだ。歌の中に思想や差別用語をわかりやすく入れてしますと自主規制で放送禁止になってしまうからね。作詞するときには暗黙の了解や狭い世界のなかの共通認識を使って言えないことを伝えようとするいわゆる暗喩や隠喩といった手法の作り方があったのさ。で、それを読み解く聞き手もいた。いまもあるのならいいけど、僕にはいまの暗号は読み解けないけどね。
初老の男は、離れて氷を丸く削っているバーテンダーに僕らのおかわりを注文した。
火花ってご存知ですか?
すこし離れたスツールの女性客が僕らの会話に入ってきた。
父が学生の時の話を時々するんです、火花屋のカクテルは凄かった!って、
ほう、お父さまはバリケードの中にいらっしゃったんですね。
そうらしいんです、と笑った。
知りたいですね、その火花屋のこと。
父が言うには、完璧で実験的なそして芸術的なカクテルを作る集団、それが火花屋、別名石火矢とも呼ばれていたって聞きました。
カクテルってなんですか?意味不明のやりとりで聞いてしまった。
火炎瓶、知ってる?
あ、
モロトフカクテルって呼ばれていたんですって、フィンランド軍の命名だとググったらわかったんだけど。
点火と投擲、このときにしっかり作られたカクテルでないと、火種が抜けて投げる反動でガソリンがばらまかれてこっちが燃えたり火傷したりしたんですって。
だけど、火花屋が作るカクテルは、運ばれてきた時から密閉性高く漏れることなく、新聞紙のキャップやサランラップのキャップで使うまで外気に触れずに輸送性能に長けていたり、マッチに濡らして溶かしたやすり部分の赤燐と薬剤をぬって乾かして蝋でコーティングした防水加工の自家発火マッチを5本セロテープで貼ってあったり、花火を貼り付けた布の火種なしの密閉カクテルとか、次々に新型のカクテルがやってくるっていってた、ガリ版刷りの使用説明書もしっかりと書かれていて毎回大笑いしていたんだって。
で、極め付けは、無点火型の伝説のカクテル、化学反応で割れた瞬間に発火する瓶の外側に湿布薬を貼り付けたようなカクテル。確実に割れたら発火するらしいんだけど、火のついたものを投げると言うパフォーマンスができないので不評だったと言うのがおかしな話。その話、今までにも誰かに?
初めてです、相手を選ぶ話ですからね。小さく笑った。他にも、消火に時間のかかるガソリンと油の配合とか放水車のボンネットを溶かしてしまった超高熱で燃えるアルミの粉末と鉄の粉末を使っていたカクテルとかすごい話があったらしいの。
車を溶かすなんてそんなことができるんですか?
理系の学生ならできるだろうね、火花屋なら。
では、神田のうなぎ、弥栄の出前というのはご存知ですか?
あら、マスターまで、
作り話っていいですよね。
姉から聞いた話なんです。高校で教室に先輩がやってきて、軽の免許持ってるやつをさがしにくるんだって言ってました。姉はちょうど家の手伝いのために16歳の誕生日に軽自動車の免許を取ったばかりで、少しずつ家の配達の手伝いを始めたところでね。うちは酒屋なんです、笑っちゃうでしょ。で、週に1回、うなぎの出前するだけでするだけで千円もらえるアルバイト見つけたってこっそり教えてくれたんです。時給二、三百円の時代にね、選抜された軽自動車免許取り立ての高校一年の姉と隣のクラスのガタイのいいワンダーフォーゲル部の男子と集合場所に行くと神社の脇の公園の茂みの脇の陽当たりの悪い学生向けのアパートの空き地にスバルサンバーが待っていてこれ着てくださいと渡されたのが板前さんの着る半袖の割烹着と帽子。あ、2人とも中は下着もしくは素肌に、ランニングは脱いでくださいと紙袋渡されて、セーター脱いで大きめの割烹着きて、サンバーの後部には十人前のうな重が風呂敷に包まれていて、これとビール三ケースをここに届けて欲しい。万が一警察に止められたら女子の方がこう言ってくださいと、紙をわたされた。
出前、神田のうなぎ弥栄、理事長室に、悪いけど冷めたら怒られちゃうんだ、責任とってくれるのかな、
窓からできるだけ乗り出して男っぽく怒鳴ってください、あとはこれの繰り返しでいいです。
姉は言われた通りやってみた。姉のことなので美空ひばり並みに気風よくできたのだそうだ。
嬉しそうにマスターは続けた、
で、積荷はうな重を十人前とビール三ケース、上手に偽装したカクテルらしかったと姉は後から思ったそうだ。ビールの大瓶の中にサイダー瓶ぐらい隠せるからね。理事長室にと言っても時、実際はバリケードの外の遠く離れたところに届けるのだそうだ。警察も知らない地下通路があってその教会脇の温室の中から地下に降りるボイラーのダクトと階段を通じて、まるでアリの巣に角砂糖を崩して与えるみたいに、学生が大勢やってきてテキパキと、花火きました!とか笑いながら運んで行くのだって言ってました。出前ご苦労様です!と入室係がキラキラした目でお礼をしてくれるのがドキドキしたって言ってました。でね、笑っちゃうのがあのセリフ。やはり、案の定、ゲート手前で警察官と機動隊に止められたと言ってました。さあ出番とばかりに、サンバーのサイドギアを入れて、窓をクルクル下げて、右腕乗り出し、何?と警察官と機動隊の方を睨みつけた、どう見ても高卒の警察官と機動隊の2人はほっぺたが霜焼けで真っ赤になってああ、かわいい男子。あのセリフをまくし立てているのを呆気にとられて見ている目線が下がっている。嗚呼、そのための素肌に割烹着だったのかと途中で気づいたんだって、ならばこの際とドアにさらに胸を押しつけてセリフを言い終わると2人を見つめ、おう?と見栄きったんだと、ご苦労様であります、お気をつけて手短に済ませてくださいと敬礼付きで通してくれたんだー!と今でも嬉しそうに言ってます。いい時代ですよねー、本当に。マスターは珍しく笑い泣きしていた。
弥栄の出前のお話しでございます。
今日は変な夜になっちゃったなあ、
これは私から、マスターはさらに三人のおかわりを持ってきた。そして私も。
風と火花と弥栄の出前に、、
四人は笑顔でグラスを掲げた。
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