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キャラメル・ポップコーン -1- [20240427]

 モノクロームの四季のなか、僕は真実の休養が眠る場所にたどり着いた。一番近くの、ありきたりのコンビニエンスストア。

 コンビニは、いつもと変わらず、あれば嬉しいがなくても困らない、流行りのポップソングのような商品が機械的に陳列されていた。商品たちは自己主張をしてこない。自らの立ち位置を彼らは自覚しているのだ。プラスチック包装たちは寡黙に並んでいる。

 あるいはコンビニエンスストアは交差点に似ている。季節を持たず無機的に存在すること、人々が匿名でひとときの交差を経験する。真夜中に篝火を囲んで行われる、仮面の儀式のように。白昼の論理が破れて、個性がとげのように異物として嫌悪され、ただそこに象徴的に存在することを要求される、あの燃え上がる夜のまつりのように。

 そのような無機質性は近代の産物であり、これからもその非情の論理はこの世界を蝕んでゆくだろうと思い、気が滅入る。僕たちの内部に流れる血はそんなに冷たくはないのだ、36℃そこらの温度を保持している。これは幸せの温度だと僕は思う。幸せの温度は37℃を超えなければ35℃を下回らない。あらゆる幸福には僕たちと同じように36℃の血液が流れていて、僕たちはそこに共感するために快楽物質が脳内に充満するのである。無機質性はこのような幸福の息の根を寸分の狂いなく、的確に停止されるのである。幸福たちは、商品としてコンビニエンスストアに陳列され、無機質の手によって屠殺される時を、ただ息を呑んで待つのだ。古代から続く『てのひら』の時代を殺し近代を推し進めたのは人間で、幸福を殺し空虚さを呑み込むのも人間である。もうすでに歯車は完璧に整備され、どこを触ってもこのプロセスは止まらない。時間の経過とともに空虚さが生まれるのだ。なんて空虚なレトリックだろう。僕はこのような表現を嗤うのが好きだ。僕の冷笑主義的幸福はきっと殺されないだろうと思う。もともと冷たいんだから。

 コンビニの中には店員を除けば僕ひとりしかいなかった。真実の疲弊のなか、僕は100円(税抜)の菓子コーナーにたどり着いた。ここには外見だけ整っていながら中身がまるで空っぽのグラビアアイドルと同等、あるいはそれよりひどい、かりそめの休養がその耽美な肢体や美しい目元をこちらに向けていた。妙な匂いの香水が混ざり合ってゴミ処理場より酷い空間が形成されるみたいに、かつては、それぞれが自らに気を引こうと極彩色の歓楽街的ラックであった。僕はこの混沌が好きだった。あるいは混沌を混沌として嘲笑するのが好きだった。まるで最後の審判のとき天から降臨して、自らの正当性を絶対的に信頼し、対象に地獄行きを笑顔で告げる天使のような気分だった。僕に限らず、自分が対象と明確に区別できるとき人は往々にして対岸から安堵の中に石や野次を飛ばすのである。そこには勝者の余裕がある。あるいは非敗者の余裕と言った方が正確かもしれない。

 人類が人類として区別されるようになってから、ずっと今まで、勝者に安堵はない。勝者に余裕など存在しない。盛者は必衰だし、そもそも諸行は無常なのだ。たしかに勝者には一時的に経済的、ないしは社会的な利益が付与される。しかしそれは永久のものではない。勝利は別にプラスではなく足し引きゼロの出来事なのだと僕には思える。対して負けには損失だけがある。物質的な損失を回復するためには精神的な注力が必要であるから、物質的な損失だけでなく精神的な損失を必ず伴う。社会における地位低下も受ける。ゆえに敗北によって被る損害を回復するためには少なくとも多くの時間と注力を必要とする。勝利は物質的な損失を伴わない点で、このような副次的な要求を受けない。一つの合理的な価値基準として、長く持続するものがより重要だというものがあるが、これに従うと、勝負事において重要なのは、勝つことではなく、負けないことなのである。忙しい僕たちには負けている余裕などない。兵法に従って、負け戦には飛び込まず、絶対に勝てる戦争にだけしたり顔で参加するのがよい。

 勇壮な肉体を持った青年が、死に対して恐怖する周囲を非難し、自らの刃が他者の臓物を貫き新鮮なあたたかい血を顔に浴びることを夢見て体を火照らすのはペンローズの階段をそれとしらず登り続ける(あるいは下り続ける)のと同じくらい滑稽なことなのである。僕はそのような青年たちを非論理的だと思っている。そして彼らの精悍な表情に見惚れ、子宮を疼かせる若い女性たちをそれ以上に蒙昧だと思っている。

 僕はそんな社会の中に入り込むことを要求され、適当に過ごそうと思っていたが、どうしても自己を透明化することができないし、自らの冷笑主義的性格がもつ論理の破れを無視することもできず、擦り減っていった。これは内面の問題で、時間が解決するといった類の易しいものではない。そして内面の問題であるがゆえにそこから逃避することはできない。だから真実の休養を求めたのだ。僕の中の矛盾を孕んだ現在の思考構造を解体して、耐震性を見直した新たな法則を構築するための、真実の休養を。(あまりに自分がこの矛盾を孕んで揺れるジェンガ・タワーに慣れ親しんでしまったせいで、そこを離れるのは容易ではないのが難点である。たとえそこが安住できない場所であっても、住めば都である。)

 ぼくは、深夜のコンビニが受容した30分ぶりの客で、菓子コーナーで勝敗について考え、若気の至り的自己顕示への嫌悪を示し、そして自らの矛盾に対して深くため息をついた、怪しい客である。四季はもうすでに数え切れないくらい回転していて、世界はもはや色を失っていて、自分の矛盾に思い当たって慨嘆するのも、もう何度目か知らなかった。真実の休養なんて見つからない。諦めではない、諦念がそこにあった。(諦念というのは諦めではなく悟りという意味らしい、僕はこのような漢語と和語で漢字の意味内容が異なる例が世界で10番目くらいに嫌いだ)

 怪しい客は、(近代的に)均一化されたデザインの100円のお菓子群に、なぜか輝く一つの商品を見つけた。それは直観的なものだった。モノクロの中に燦然と輝いていた。キャラメル・ポップコーン。僕は失われた四季が走馬灯のように脳内を駆け巡るのを感じた。何か大きなものが動き出すのを感じた。ちなみに直観とは、感覚に左右されないものである。感覚器官が受容し、それを脳が知覚し判断するというのが日常的なプロセスであるが、直観は判断すら通り越して、決定がそこに位置する。日常のプロセスと因果が反転する。直観においては先に決定があり、その後に原因や理由がお膳立てされる。キャラメル・ポップコーンが僕の脳の中心を衝いた、五感が驚愕し一瞬の停止を余儀なくされるくらいには。

(続く)

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