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ジャンルは神聖であり、浅薄でもある [20240319]


ジャンルは神聖であり、浅薄でもある

今日は「遊ぶシュルレアリスム」の全てと「芸術学を学ぶ人へ」の冒頭数章を読んだ。

シュルレアリスムの解説を見たのちに解釈学批判を読んだ。この順序は偶然ではありつつも、適切だった。作品がどのような意図を持って、どのような手法で作成されたかをシュルレアリスム解説者や最も重要視していた。シュルレアリスムの作品と認定するか否かは、ブリコラージュ的に作られたかどうか、つまり作者の思想と無縁な偶発性の集合体かどうかということに依存するという言い分だった。しかし、あくまで現前しているのは作品であり、作者ではない。作者の心の内部を探ることはできない。だから作品を視ることで作品が鑑賞者の内部に形成する像がどのような概念を示すか?ということで判断することしかできないのだ。遊ぶシュルレアリスム内の解説者はこの点で作品の像の範囲を超え、不確かな断定を基にいくつかの作品を断罪する。しかしそれがメタ的で不確かであることには気づいていない風だった。うーん。

しかしまあ、解説者の言いたいことは痛いほど理解できる。表象だけ真似てもシュルレアリスムの崇高な(ある人間には粗雑に映る)理念が通底していなければ、作品はどんな駄作よりも無価値に思える。シュルレアリスムの特徴はその内から湧昇する奔放さにある。図形の意図的な構築がシュルレアリスム的と理解されるという状況はなんとしても回避したい。それは今日僕があの本を読んで本気で感じたことである。

話は別になるが、シュルレアリスム作品がその不可解な表現に意味を託していないこと。潜在意識や遊び心、本能などに身を任せた結果実現したものであることを初めて知った。これにはかなり驚かされた。シュルレアリスムの作品たちは一見奇妙に見えるが、ひとつのストーリーに解釈可能なように細部が作り込まれているという背景を勝手に妄想していた。だがいざ蓋を開いてみるとその逆で、僕もいつもやってきていた制作法で作られていた。感覚に身を任せてすべてを構成する制作法こそがシュルレアリスムの最大の特徴であるらしい。びっくりした。自分の制作ステップを不適切だと感じて頑張って変えようとしたら、俺が好きな画家集団は俺が変えたいと思っていた制作方法を追求していた。びっくり、びっくり。

しかし、そのような手法を選択するか否かは私の自由である。ジャンルへの所属を嫌悪するところに俺の捻くれた特徴がある。いずれかのジャンルに属するのではなく、俺が好きなものを詰め合わせれば良いのだ。詰め合わせた結果の混沌度合いを調整するところまで必要だけど。俺はその過程を楽しいものだと認識する。少なくとも映像作品や小説については、シュルレアリスム的作品にはしたくない。適切に構成し、要素の重要さを観客に認識させ、高揚させ、それを破壊する。この精神操作のためであれば空想でも変態的要素でも、なんだって使って構わない。細胞の一つひとつが悲鳴をあげるくらい寂しく切ない破壊を俺はいくつも作れる自信がある。俺はたくさんそのような気持ちと対峙してきたから。

一方で、静止画については多様な解釈が可能で、ひとつの意図のみに支配されない作品が好きだ。画面が完成していれば、なんだって構わないのだ。不可思議であっても構わない。論理が通っていなくても構わない。
音楽も同じ。ライブハウスやカラオケのなかで、参加者の意識が有機的に混合し上昇して、熱狂状態/昂奮状態が生まれる。それがいちばんだいじで、それ以外は結局だいじじゃない。

まあ自分の好きなものを作っていよう。

ジャンルは神聖な、俺の歩く道を舗装してくれる暖かい母の腕のような概念である。そして同時に、ジャンルは破られるのその瞬間を今か今かと待ち望んでいる、マゾヒスティックな概念なのである。と俺は思う。

毎日作文の形式を洗練させてゆこう

Revision of Everyday Composition's Structure/Framework

毎日作文を習慣化していくが、よりよいframeworkを思いついたらそれを果敢に実験してみたいと思う。これは誰もが閲覧可能であり、誰も閲覧しない、深夜の青姦みたいなものなのだ。あるいは、ミシェル・フーコーの唱えたパノプティコンみたいなものなのだ。他者の目は現実世界のどこにも存在しない。傍観者は俺の内側にいる。俺は本能的に誰かに見られているような気になり、襟を正して文章を書く。そういうことだ。
今日の改善点は2つ。

  • タイトル表示を「{題名} [{日付}]」という書式にする

  • 前日のクソな点を振り返るコーナーを末尾に設ける。

昨日の作文を振り返る

それぞれの段落

1,2の問題提起は悪くない。3,5の議論がクソ。

3は構造が曖昧。構造化してみよう。不要な文を取り除こう。

  • [主題]意外性は現代のエンタメの構成要素として最も重要である。

    • 人々はまいにち多量の情報に接触し、陳腐化が急速に進行した。

      • サブスクリプションサービス、SNSが普及したためである。

      • 絶対的な時間ではなく、脳が処理した情報量に依存して脳は飽きを感じるため、陳腐化が進むのである。

    • このような世間において創作作品が評判を得るために何が効果的か。今までにない刺激的な表現をすることに誰しも思い当たる。

      • [他のものでは代替が効かない理由を入れる]

      • 意外性ということを記述する。

    • そしてその意外性というのは初回(あるいは非常に時間が経った後の初回視聴)にのみ効果を発揮する、非連続的グラフを描くのだ。

      • [「刺激的な表現」をこれから意外性・新鮮さという言葉で表現することを明記する]

    • また、作者たちが互いに影響をしあうことで、その作品の新鮮な要素は数年後には使い古された表現ークリシェーに変容していることもままある。

  • [以上より、作品の刺激はエスカレートする。陳腐化が加速する。という段落のconclusionを最後にまとめる。今は風呂敷を広げたまま移動しているような状態。きちんと結んで、まとまりをつけよう。]

  • (いらない)映画も同じく、世界各国の映画が次々に上映されていく。一つひとつの映画の持つ貴重さが失われてしまったと思う。

4 [不要ではあるが、ない方が良いというわけではない。こういうモノローグは。]

5も構造を明らかにしよう。

  • 新鮮さは現代の娯楽において必要不可欠な要素である。一回性は新鮮さの存在する条件である。

    • [これは必要以上に複雑なレトリックである。単純化すると、]新鮮さは現代の娯楽において必要不可欠な要素である。そして一回性は新鮮さにおいて必要不可欠な要素である。

    • (言い換え)すなわち新鮮さは初回の作品視聴でしか味わうことができない。

  • よって、現代人としての我々は、娯楽に一回性がつきものだと考えるようになった。

  • ここで、色褪せること・忘却することは新鮮さの存立の前提ではないことに気をつけなければならない。

    • 一回性は新鮮さの存在条件であるが、その作品がのちに色褪せて見えるかどうかは作品次第であることは明らかである。

[まとめも悪くはない。もう少ししっかり本文の総括をできたらbetter。]

気づき

  • 日本語でも、段落内の文の間には後置修飾の関係が存在し得る。よって、並立する2要素を説明し、片方の要素のみに修飾節がかかる場合は、その要素をさきに記述すると良い。そうすれば、修飾関係が明確になる。やさしい日本語を目指そう。逆に言えば、修飾を明確にしない記述が可能になるということでもある。発見?


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