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ストーリー理解

COTEN RADIO の最近公開されているエピソード「老いと障害の歴史」で、深井さんがたびたび挙げているストーリー理解について、本当にそうだな、と何度も頷いてしまった。

事実を事実としてそれ単体で理解することができず、〇〇なのはそもそもこういう背景があってこういう理由があって――、という理解の仕方。確かに、ほぼすべてのことについてそういう風に考えてしまいがちなのが(少なくとも日本の社会を見ていると)往々にしてある。

自分の場合もほとんどのことをそう考えているし、その理解の方法は確かに腑に落ちやすい。けれど一方で、昔から疑問を持つ部分もあった。それは、「犯人の動機」。

子供のころからニュースを見ていて、犯人の動機が、犯人の動機の解明に全力を、というフレーズが出るたびに疑問符が浮かんでいた。人の心なんて外に取り出して明らかになるものじゃないんだから、それが本当かどうかなんて分からないじゃないか。そんなあいまいなもので処遇が変わったり刑罰の重さが変わったりするのも、なんか違う気がするんだけど。そんな風に考えていたのを思い出す。

もちろん今では、精神的に不安定だったとか責任能力が無かったとか、そういう事例があることや、他にもさまざまな事情を考慮する必要があるのは理解しているけれども。

それらを含めて結局は、納得できるかどうか、ということに収斂していくのかな、と。誰が、というと、加害者被害者や裁判に関連する当事者たち。でも、その全員を納得させるための材料として「世間」も出てくる。世間的にそれが納得できるような話であれば、当事者たちに対しても説得力があるだろうから。たまにその辺が一致しないこともあるけれど。

その納得できるかどうか、というところにストーリー理解が関係してきている。これこれこういう理由があって動機が生まれ、その結果としてこういうことになった、だから有罪or無罪、という流れ。起きた結果だけを見て判断をすることができない。「なんでこんな事件が起きたのか」を納得することができない。この人がこんな風に考えたから、この事件が起きた。

原因を究明することは対策につながるから、というのもある意味では正しいと思う。でもその場合は、原因を人に求めるとたいていは対策にならないと思う。構造的なものが大半だから。こういう場合は、その犯罪は起こるべくして起こった、という性質を帯びるので、たとえその人ではない誰かが同じ場所同じ境遇にいたら、きっと同じことをすることになる。もちろんこれは証明できないことなのだけれど。

でも、人間にはそういうストーリーが必要なんだろうなあ、と思う。ストーリー理解しかできないという話を聞いて、ああやっぱりそうなんだなあ、と。せめて、なんとかそれを認識した上で自分の考えに活かせればなあ、と思うわけです。

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