自分の人生を生きることなんて出来んよ


「他人の人生生きるなんてもったいない!みんな自分の人生を生きなよ!そしたら充実するよ!」
何とまあ鼻につく、歯の浮くような文言であることよ。

自分の人生を生きるということはすなわち「誰かの評価を気にしない」ということなのだろうが、そんなやり方を私は知らないし、実際問題不可能だとさえ思う。

承認欲求は人間に自然と備わる欲求であり、それを満たすために行動した人間は有史以来ごまんと居るのだろうが、SNSの普及した現代においてそれが急激に顕在化したのだと考える。
SNSは必ずしも承認欲求の根源ではないものの、それを顕在化させ、かつ助長したという点で大いなる責任がある。
現在、満たされない承認欲求に苦しむ人間の9割はSNSのせいだと言っても過言ではなかろう。実のところ、私もその1人である。

「自分の人生」のために承認欲求を腐す人々が盛んに引用するアドラー心理学、そんなものは何の救いにもならない。
そもそもこの文の執筆当時から100年も前、SNSなど影も形もなかった時代の自己啓発をそっくりそのまま現代の社会に適用しようという発想自体、完全に阿呆の所業である。

SNSの存在とその効果。これを検討することなくして語られる承認欲求論など、これから先は只の戯言としての取り扱いを受けることになるだろうし、そうなるべきだと考える。

テーマパークで遊ぼうと、見目麗しい料理を食べようと、考えているのは常に「楽しさや美味しさ、美しさを享受する自分を他者に見せつけて、評価されること」などという若者は少なくない。
さもなくば、InstagramなどといったSNSに、中高生が投稿した毒々しい色彩のスイーツの画像が溢れている理由がうまく説明できまい。
いつ、どこで、何をしていても他者の目線や評価の匂いがして、皆それを気にしつつ行動する。
そのような社会において「自分の人生を生きる」ことは、余程のことが無い限り不可能である。

余程のことというのは、例えば、多額の金銭や広大な不動産、希少な食材を盛り込んだ夕食、最新鋭の自動車やガジェットなど社会的信用を示すアイテム(他者からの羨望の眼差し、或いは高い評価をもたらす事物)を手に入れることが挙げられる。物質的な余裕には、ひとまずの精神の余裕をもたらす効能がある(それ故承認欲求の飢餓からしばらくは自由でいられる)からだ。それに成功した人間が往々にして、冒頭で挙げたような悪臭を放つセリフを社会に向けて発信するのだ。

しかし、多額の財産の価値など、他者から認められて初めて意味をなすものである。真に「自分の人生を生きている」のならば、何故それの入手に腐心していたのだろうか?
他者の存在を前提とする価値を追求し、それを果たしたのならば、通常辿り着く先は「やはり他者の承認は大切だ」という結論だろうが、何故ここで承認欲求を否定するような結論が出るのだろうか?
また、「自分の人生を生きよう!」というメッセージさえ、他者からの評価を期してのものという可能性がある。
「あの人ってフリーダムな人だわ!キャー素敵!あたしもあんな人になりたいわぁ♡」という黄色い歓声を夢見てそう言った、と疑うこともできる訳だ。

この理屈に照らせば、畢竟どのような人間であっても「自分の人生を生きる」ことなど出来ていないし、これから先出来るようにもならないのだ。
他者の眼差しに悩む人間も、それを克服した人間も含めてである。

真に『自分の人生』を送りたいのなら、原始時代以前にまで遡って現在の文明を放棄するしかないだろう。
会社や学校を辞めて家族と縁を切り、他人の建てた家を出て、他人の造った服を脱ぎ捨てて、そこらへんの草の蔓で編んだパンツで局部を隠す。
他人が屠畜した肉を他人が鍛造したフライパンと他人が搾った油で炒めて他人が醸造した醤油に付けて食うなんぞ以ての外、槍と弓矢をつがえて野山を駆け巡り、仕留めた獣を直火で焼いてその肉に齧り付く。

飯・クソ・服・寝床などといった生理的生活から、人生においてなす事やその終え方の思索といった精神的生活に至るまで、他者の存在を完膚なきまでに排除することだ。それを実践した人間だけが「他人の人生生きるなんてもったいない!みんな自分の人生を生きなよ!そしたら充実するよ!」とでも言うがいい。

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