会話の健全性アセスメント概論
はじめに
もはや言うまでもないことだが、会話は対人コミュニケーションの中核をなす営みである。
したがって、自分が相手に好印象を与えるか、または悪印象を与えて嫌悪されるかは、その時の会話がどれほど相手にとって好意的で健全なものであったか、といったことに帰着する。
とはいえ、その答え合わせがいつも即座になされるものとは限らない。
この世界には社交辞令というものがある。
つまり、たとえ相手が自分の発言で悪感情を抱いたとしても、表面上はそれを出すことなく、言葉や態度をもって好意的な反応を繕うことが、しばしばあるのだ。
その表面上の好意を額面通りに受け取って、欠陥のあるコミュニケーションを何の修理も無しに続けたとしたら、その相手との関係の破綻が、しかも一層悲惨な形で引き起こされる危険性がある。
自分の発言に対して相手が向ける好意が社交辞令か否かは、経験を積むことによってある程度は判断できるようになる。
しかしながら、そのセンサーの正確性は、原則としてその持ち主本人も含めて誰かが保証してくれることはない。(注1)
自分自身の感覚さえも信用できないとなると、場合によっては他人とのコミュニケーションそのものに対する忌避感が生まれる。そしてそれが極まる先には、所謂『引きこもり』に代表されるような、一般社会からの孤立という事態が想定される。
このように、会話の表面上の感触にのみ依拠するような判断枠組みでは、相手とのディスコミュニケーションを十全に防ぐことはできず、また自身や社会に対する不信をも招きかねない。
そこで私は自身のコミュニケーションを、前もって定めたある程度具体的な基準へと当てはめ、その健全性を自己評価する方法へと到達した。
理念的には手垢のついたものではあるかもしれないが、その方法論的な内実はそれぞれに特異なものとなる筈である。
ここでは、『一応私はこのようにしています』という一例を紹介するものである。
アセスメントをなす8つのエレメント
会話の健全性のアセスメントは、以下に示す8つの観点により実施される。
・正気
・敬意
・謙虚
・内容への追従
・会話相手の追従可能性
・発言法
・安全性または非暴力性
・政治的正しさ
その内容・もう一段階詳細な判断枠組みを項目ごとに説明していくことにする。
・正気
字義通り、コミュニケーションの場面における自身の正気に関する度合いである。
・通常人の価値観や倫理観を著しく逸脱するような会話でなかったか。
・自身の狂気性に自覚がある場合はそれを隠蔽するための対策は十分であったか
・そうでない場合、極度に衒奇的な振る舞いはなかったか。
・敬意
これも字義通り、会話相手に対する敬意に関する度合いである。
・敬語の適切な選択(尊敬語・謙譲語・丁寧語)はできていたか。
・初対面の人間に対して、馴れ馴れしくタメ口での会話を行わなかったか。
・目上の人間に対して、不当な口答えをするような内容ではなかったか。
・謙虚
字義通り自身の謙虚さの度合いである。
・自身の経歴や成功、能力や長所を過度に自慢するような内容ではなかったか。
・またそうした要素を相手から褒められたり、リスペクトを示された場合、感謝の意を伝えることができたか。
・内容への追従
相手の発言に対して自分がついて行けていたかの度合いである。
・空返事をしなかったか。
・的外れでない返答を、当意即妙にできたか。
・相手の追従可能性
自分の発言に対する相手の付いていきやすさの度合い。
・専門外の人間がついて来れないような(注2)、過度な専門用語・知識の発露はなかったか。
・会話相手の与り知らないような内容はなかったか。例えば、何の注釈もなしに内輪ネタを持ち出すことはなかったか。
・発言法
内容論ではなく会話の方法論に着目する観点。
・声のトーン・音量は場の雰囲気に照らして適切であったか。
・相手を遮るような喋り方がなかったか。
・会話のボールを極度に長く保持し続けなかったか、つまり自分だけ極度に長く喋り続けなかったか。
・安全性または非暴力性
相手の心理的安全性を不当に害するような発言内容・方法ではなかったかの度合い。
・暴力的な言葉遣いはなかったか。
・相手を怒鳴りつけるような喋り方をしなかったか。
・相手のコンプレックスを過度に弄るようなものではなかったか。
・猟奇的・グロテスクな内容への過度な言及はなかったか。
・政治的正しさ
『安全性または非暴力性』項目とはある種似通った項目である。
前項から分岐して、会話相手のマイノリティ性・被害者性・弱者性、またはその保持の可能性への配慮があったかの度合いを示す。
・異性のいる場で過度な下ネタに走らなかったか
・性的・民族的etcなマイノリティ性に対する加害的な発言はなかったか。例えば『淫夢』ネタや、エスニックジョーク(注3)へのみだりな言及はなかったか。
・相手の被害体験(とくにいじめや性暴力)につき、不躾な踏み込みや二次加害的な発言はなかったか
・政治的に問題のある人物(例えば独裁者、差別主義者、テロリストなど)に対する過度な賛同や賛美はなかったか。
これらの観点から、自身の会話を事後的に採点し、次回に向けてコミュニケーションをブラッシュアップする習慣が私にはある。
無論、これらの項目はリジッドなものではない。
自身の置かれた共同体の内実や相手との人間関係、さらには周辺社会の情勢などに応じ、新たに基準が増えることもあれば、逆に用いられない基準が出てきたりする。
終わりに・今後の展望
以上のように、自己の会話の健全性を測るための私なりの枠組みを提示してきたものの、これに則ったアセスメントの実施そのものは、必ずしも厳格なものではないのも実情である。
たとえば楽しさに浮かされた会話の後、その余韻に感けて自己採点を怠ることはままある。
このようなタイプのコミュニケーションにおける失敗は特に危険であるにも拘らず、である。
今日には楽しく会話していた相手が、翌日には口も利いてくれなくなっていた、といった悲惨な事態を引き起こす危険である。
これを回避し、自己のコミュニケーションを見つめ直して改善を図るためには、まず相手との会話の段階からの意識改革が必要といえよう。
具体的には、適度な平常心を保った会話を心がけることである。
平常心を欠けばディスコミュニケーションを招来し、その早期発見が困難になる。
かといって平常心を堅く保ち続ければ、会話から楽しみが消え失せてしまう。
中庸の探り当ては一朝一夕にとはいかないものではあるが、これこそが私の今後の課題であると考える。
脚注
(注1)
一般的なコミュニケーションと同様に、そうした他者からのコミュニケーション精度への評価にも、多分に社交辞令やおべっかが添加される場合があるため、信憑性は低いといえる。
自分自身による評価・保証もあくまで『自分のことは自分がよくわかるはずだ、だから他人からのそれと比べて幾分かマシ』程度のものであり、とりわけ自分自身に甘い傾向のある人間の場合、その正確性は度々見誤られる。
(注2)
より一般化すれば『相手が持つ知識の程度や種類への配慮がない』といったところである。
(注3)
程度がよりひどいものであればヘイト・スピーチと見做される。これは相手への加害行為として『安全性・非暴力性』ポイントをも下げるばかりか、場合によってはその空間の管理者や公権力からの懲罰の対象ともなりうる。絶対に回避するべきである。
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