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ここじゃないどこかへ 〜僕の不登校20年〜 vol.3

インターネットで「学校に行かないという選択肢」には出会ったものの、
そう簡単に心からそう思えるわけはありませんでした。
それも当然です。
両親は教員で、親戚にもたくさんの教員がいる教員一家に生まれ、学校に行くということがあまりにも当たり前の環境で育ったからです。
いや、もしかしたら教員一家に生まれたので無くても、当時の社会環境の中ではそれは当たり前だったかもしれません。
日本の義務教育の歴史は150年以上変わっていません。
明治時代にできてから、ほとんど変わらないシステムの根幹がある中で何世代にもわたって文化レベルで学校に行くのが当たり前の社会が作られてきているからです。
僕が不登校になってから20年経った今も、少しは世の中の不登校に対する理解や認知が上がったとは言え、学校に行くのが当たり前の価値観はまだまだ根強いはずです。

「学校に行かないという選択肢」を肯定的な意味で自分が本当に選べるようになるにはどうしたら良いのか、答えの無いまま僕の不登校、引きこもり生活は続いていました。
僕が「学校に行かないという選択肢」を知るきっかけになった女性が、どうしてそんな風に考えられるようになったのか、その興味とも憧れとも言えるような感情の中で、僕は自然とその女性を追いかけるようになりました。
昼夜逆転した生活が当たり前になっていたある夜、僕はその女性が書いていた日記を読んでいました。
そこには当時の画素数の低いデジカメ写真とともに、「沖縄逃避行」というタイトルで旅行の記録が綴られていました。
沖縄という何とも言えない南国感や、異国感にも興味を惹かれつつも、僕はその「逃避行」という言葉にとても心を動かされました。
それは、不登校になって大きな罪悪感や劣等感を感じ引きこもりになり、毎日悶々として過ごしていた自分にとってはとても魅力的な言葉でした。

「学校へ行くのが辛い」
「学校へ行けないのも辛い」
「家に居ても辛い」
「そもそも生きているのが辛い」
「消えてしまいたい」
「ここじゃないどこかへ行きたい」

僕はその沈んだ気持ちを抱える毎日の中で、突然感じてしまったわくわく感に突き動かされるものがありました。
そして母親にこう宣言したのです。
「僕、ひとりで沖縄へ行く」
その時の母の気持ちは想像に容易いでしょう。
不登校で引きこもりの14才の少年に、それはあまりにも現実的ではありませんでした。
そして僕も、母にそうは言ってはみたものの、結局どうして良いのかわからず、インターネットで沖縄の情報や宿などを調べてみたりしましたが、今のように何でも情報が手に入る時代では無く、結局何もできずに悶々とした日々を過ごしていました。

ですがそんなある日、転機が訪れたのです。

つづく


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