幼少期について

おはようございます。
Hiro_Matsunoです。
今日はあえて昔に立ち返り幼少期について書いていこうと思います。
それはADHDのお子さんを抱えたVoicyパーソナリティーの虹色の朝陽さんに送ります。

私は幼少期言語障害だった

1.私は言葉の覚えが悪かった

実はこのことは私が保育園に通い始めたときに発覚したことなんですが言葉覚えが健常者の子供より遅かったんです。
当時通っていた保育園は言語教育ができる設備を持った保育園に通っていたため精神的な安定を保つことができていましたが言語の発達は依然として遅く一人遊びをするような幼少期でした。
なぜなのかと言うとみんなと同じように話せないので必然的にみんなから離れていってしまったのです。

2.幼稚園の時は越境入園していた

私の通うはずの幼稚園には幼少期の言語教育の施設がなくお隣の幼稚園まで越境入園していました。
その頃から多少言葉を話すことができるようになってきましたが健常者の人よりまだ言葉覚えが遅かったんです。
しかも吃音が激しい状況でみんなと一緒に話すにはなかなか難しい状況でした。

3.小学2年までに克服する努力をせねばならなかった

小学校は言語教育の施設が存在していましたが逆境が待っていました。
小学校2年までに言語障害を克服しないといけなかったんです。
克服できなければ福祉学級行きという話が出ていました。
必死になりながら国語の時間に言葉の教室に通っていました。
今でもメトロノームと音を測る装置類には嫌悪感を感じてしまうくらい必死になってました。
なんとか小学校2年の3月に克服しました。

こう言う悲しいことを伝える理由としては虹色の朝陽さんを応援したかったから

なぜ私の昔の言語障害のことを伝えたのかと言うと虹色の朝陽さんにあなたのお子様はまだ戻る可能性を秘めているからです。
私自身おとなになってからADHDになりました。
言語障害はアスペルガー障害です。
だけど私は諦めることはしません。
実はプログラミング教育のメンターを手伝ってほしいと依頼も来ています。
行ってくれた友人も私が障害を持っていることを知っています。
あえてチャットを通じて話しています。
その彼もコミュニティー障害を持っています。
互いが障害者になったことによってまた再び一緒に頑張りたいというお話をいただけたのです。
私自身Code For Japanのオリジナルメンバーでありこのようなボランティアをしている身でもあります。
障害を持っていたって自分の思いを貫くことができるんです。
そのことを虹色の朝陽さんとお子さんに伝えたかったからなんです。
言えることは諦めたらそこまでです。
今私は就労移行支援事業所に通いまたリハビリの日々を過ごしています。

私が今伝えたいことは言語障害を克服したけど更に障害を去年追ってもまだ諦めない心を持ち続けられるのは多くの仲間のおかげなんです。
実は去年Code For Japanをやめさせてほしいと書いたことがありました。
そのときに返ってきた関治之代表の言葉今は治すことを専念して絶対戻ってきてほしいという言葉これに支えられました。
仲間がいれば再び戻れるんです。
私は2/1付でCode For Japanに復帰いたしました。
理事候補でもあったので悩みましたが一週間悩んだ上受け入れることを明確に伝えました。
だから言えることは困ってたら何でも伝えてください。
できる限りのことは障害を抱えている私ならできると思います。
一人で抱え持つより多くの仲間を得ることがこれからの大切なことだと思います。
私も2/1から就労移行支援事業所に通い始めたのでまだ仲間作ろうと努力しているところです。
でも私の周りには今まで一緒に頑張ってきた仲間との付き合いもありますしすぐに打ち解けれると思います。
一緒に頑張りましょう。

Hiro_Matsunoでした。

また、明日。

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私自信今慢性B型肝炎治療中の立場でもありADHD治療を行なっている患者兼障害者です。同時治療による所見を書いていきたいと思います。 こちらはADHD側の所見を書いていきます。 日時更新はこちらが最新になります。

私自信今慢性B型肝炎治療中の立場でもありADHD治療を行なっている患者兼障害者です。同時治療による所見を書いていきたいと思います。 こちら…

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