私の見えるところであからさまに他の女子と楽しそうに話すのやめろよ!
寡黙な男の子がいた。名をたかしという。
私は、たかしに毎日【好き】を伝えていたが、
残念ながら結ばれなかった。
そんなに毎日伝えていたら、【好き】という言葉が軽くなってしまうことも知らず、
一生懸命思いを毎日伝えていた。
そんな寡黙なたかしが、ほかの女の子と話していると衝撃を受け、ヤキモチを妬いた。
【私の見ているところであからさまに他の女子と楽しそうに話すのやめろよ!】と思った。
面白いのが、
たかしと私は付き合ってないのである。
嫉妬をする権利がないので笑ってしまう。
それどころか、私の人生を振り返ると、
片思いの時の方が、
好きな異性の周りの女子に嫉妬をすることが多いことに気づく。
自分のものではない。
それなのに、
何故ヤキモチを妬いてしまうのだろうか。
自己紹介として、私は静岡で予備校講師をしている。
20歳の自閉の傾向が強かったセダンの走り屋ヤンキーと、24歳の愛着障害をかかえたヤンキーの無計画子作り行為により、私はこの世に誕生した。家族の間に愛などなかったので、わずか3年で両親は離婚した。
父との愛着形成が上手くいかなかった私は、
父との愛着を、同じくらいの歳の異性に求めたのかもしれない。
わたしは、好きな人が途切れなかった。
そして、加藤ミリヤの歌詞のような恋愛をした後、好きになった男の子がたかしというわけだ。
寡黙なたかしと仲がいい女子は私だけ、寡黙なたかしと1番仲がいいのは私、なんて、自惚れていたのだ。
ところが、たかしが、ほかの女の子と話している姿を見ると、
【たかしと一番仲がのは私】という地位が揺らいで、脳が混乱を起こしてしまう。
(もしかして、あの子がたかしと一番仲がいいのかも。たかしが好きな女の子は、あの子なのかも。)
脳がそう錯覚すると、その女の子のことを、嫉妬のメガネを通して見てしまうことになる。
そして、自分の思い通りにならない怒りを、たかしにぶつけてしまっているわけだ。
──嫉妬とは恐ろしいものだ。
嫉妬のメガネを通してその人物を見てみると、
すごく嫌な奴に見えるのだ。
【可愛い女の子】が、嫉妬のメガネを通すと、突然、【ぶりっ子な女】に見えてしまう。
【社交的な女の子】が、嫉妬のメガネを通すと、突然、【あざとい男好きの女】に見えてしまう。
私は、こういう嫉妬をしている自分を醜く思い、そんな醜い自分が嫌だった。
だから、ある時からか、ぱったりと好きな異性の周りや好きな異性に嫉妬をしなくなってしまった。
1人の人に執着しなくなってしまったのだ。無償の愛が分からないのである。
あるいは、有難いことに、
今までの彼氏が【ひろが1番だよ】と行動で示してくれていたことが多かった。
だから、嫉妬をせず安心して付き合っていられた。(その分、いくらでも代わりはいると思っていたので、間違いを犯されたら嫉妬をする前に別れるつもりでいた。無償の愛が分からないのである。)
それも相まって、片思いの時の方が嫉妬をすることが総合的に考えて多いのかもしれない。
嫉妬はするのもされるのも辛いものである。
しかし、私もまた誰かに嫉妬をすることがあったら、
その人に固執していることになるので、
その人が「代わりのきかない、唯一無二の、かけがえのない」人であり、
すなわち、無償の愛なのであろう。
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