絶望の世界に共に生きる-『35歳の少女』から見えてくるもの-

ドラマ『35歳の少女』を視聴した。
自転車の事故で意識不明となった10歳の少女が25年後に目を覚ますという、理不尽で過酷な現実に直面するところから物語はスタートする。
詳しい物語の内容は各説明サイトを見てもらうか、動画の再視聴をして頂ければと思う。

さて、もし自分が主人公と同じ境遇に直面したとしたらどうだろうか。
一夜にして現実と未来、つまり希望が奪われるのである。人生がこれからまさに花開いていく10歳から、突然35歳という人生の甘いも酸いもそれなりに経験していると見なされる年齢に勝手に連れていかれるのである。実際は何の経験もできないまま、恋も友情も勉強も仕事も何一つできないまま、時間だけが確実に過ぎているという現実。貴重なかけがえのない青春を謳歌する自由を奪われて、果たしてこれからどうやって生きていけばいいのか。

しかもドラマの中で35歳の“少女”は、完膚なきまでに彼女が描いていた夢、戦争も差別もない理想的な未来を否定されてしまう。そしてそんな彼女にとって何より耐え難いのは、徹底的に否定された直視したくない現実世界を生きていかなければならないということであった。これまで自分が信じてきた未来が裏切られた現実に少女は絶望し、余すところなくその感情を表現する。柴咲コウ演じる少女のそうした号泣の様子は、10歳どころか、物心つきはじめる幼子をも彷彿とさせるものといっていいかもしれない。何の遠慮も我慢もせずに全身で感情を表現していた時代のそれを。そしてそんな彼女の様子を目にした視聴者の多くが、なにか感じるものがあったのではないだろうか。

なんて可哀想な話なのだろう。

現実だったら耐えられない。

自分に引き付けて考える傾向がある人にとっては、次のような感想を抱くかもしれない。

最後に心の底から泣いたり笑ったりしたのはいつだったか。

こうした感情を、今でも自分は持っているのだろうか。

人によって感じることや思うことはさまざまだろうが、このドラマの文脈により照らして言えば、子をもつ親、少しでも教育に興味のある人であるならば、おそらくもっと率直にこう感じるに違いない。

何があっても、自分の子を悲しませるようなことだけはしたくない。

子どもの夢を踏みにじる大人にだけはなりたくない。

ところが現実はご存知の通り、なかなか理想通りにはなっていない。少女が夢描いていたような戦争も差別もない未来を実現できていないし、悲しみはまるでいっこうに減らないようにすら見える。そうした意味では、大人として子どもの夢や未来を踏みにじってはいないか、失望するような現実を再生産する一員となっていないか、このドラマはこういったことを大人に問い掛けてくる一面もあるかもしれない。

ただ一方で、まるで救いがないか、絶望だけかというとそうでもない。厳しい現実を突きつけた元同級生は別の場面で、大人としての仮面を捨てて、等身大の想いのたけを少女にぶつけることで、少女はようやくこの世界に自分の時間を取り戻す。空白の25年後の世界、彼女が存在しない、誰も知らない世界にようやく、自分をこの世界に繋ぎとめる存在に気づくのである。

世界とはつまるところ、もはや関係性の中にしか存在し得ないと言っていいかもしれない。そう考えると、理想からかけ離れているように見えるこの世界にあって、その希望を繋ぐヒントがここにあるように思われる。理想的な世界を創ることがたとえ叶わないとしても、少なくともその世界に共に存在し、彼女の、彼の悲しみに共感し、寄り添うことはできる。そしてもはやそこからしか、この理想から程遠い絶望的な世界で生きることは叶わないようにすら思われる。

何も難しいことはない。映画やドラマ、小説、評論、エッセイ、漫画、様々なSNSでのやり取り、目の前の相手、いや何でもいい。人やもの、出来事あらゆることに対して何かを感じたり考えたりすること。それを自分の知っている人、あるいは今は知らなくても知りうる誰かに対して発信すること。あるいは共に語り合ったり共感しあったりすること。いや、ただそこに共にいるだけでいい。そうした世界に共にいる者としての共通性だけが、絶望的な世界を生きる根拠になる可能性を有しているのだから。そしてそういった瞬間を束の間にでも見いだせた時、この世も捨てたものじゃない、と希望をもって人は歩いていけるのかもしれない。

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