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「共同体」をめぐる断章(1)

「教会は、信じる者の共同体であり、聖霊の導きのもとに聖書から学ぶ。」

日本メノナイトキリスト教会協議会信仰告白

私が所属するメノナイト(メノー派)では、キリスト教会の共同体としての意味と役割を重んじます。信徒の運動である再洗礼派(アナバプテスト)運動にルーツをもち、信徒個人の自発的な信仰告白にもとづく洗礼(信仰者洗礼)を主張した結果、自覚的信仰者によって形成される共同体こそが真の教会の姿である、と理解してきたわけです。

しかし、現実の教会はそのような共同体を志向しつつも、さまざまな困難に直面してきました。そもそも教会は共同体を形成することをしくじってきたのではないか、いやむしろ、めざす共同体の姿を取り違えていたのではないか、では一体どこでボタンをかけ違えたのか、などと内省しているときに、アメリカの思想家パーカー・J・パーマーのエッセイと出会いました。自分の勉強も兼ねて、その内容を紹介しつつ、思いつくことをつづってみます。

(1)そもそも、私たちが知っていようといまいと、好むと好まざるとにかかわらず、人間は共同体の生き物です。生物的な存在としても、また霊的な存在としても、私たちは複雑な関係の網の目の中に生まれ、育ち、生きていくわけで、これは善しあしの問題ではなく、一つの事実でしょう。だとすれば、共同体とは私たちが達成すべき目標ではなく、受け取るべき所与のもの(つまり賜物)であることになります。まるで工業製品のように、共同体を「作り出そう」と決意し、デザインにとりかかった時点で、私たちの心にはエゴがふくれあがることになります。エゴは私たちを消耗させ、私たちは互いを疎外し、あれほど渇望していたつながりをあっさり投げ捨ててしまうのです。「コミュニティ・ビルディング」の名のもとに、先細りしたり壊されてしまう人間関係のなんと多いことか。これは真に必要なことと逆のことをしていることの当然の結果でもあります。私たちがすべきなのは、私たちが創造された原初の状況に安んじること、与えられている賜物を受け取ることなのです。

オリジナルはこちらです。
Parker Palmer's Thirteen Ways of Looking at Community (…with a fourteenth thrown in for free) • Center for Courage & RenewalCenter for Courage & Renewal (couragerenewal.org)

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