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「聞く」ちからを神学する(その5)

『聞く技術 聞いてもらう技術』をめぐる神学的探究:第4章

東畑開人さんの『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書、2022年)の読後感を、神学の言葉でつづる第5回です。本書の第4章「誰が聞くのか」を取り上げます。

聞くことができるためには、まず聞いてもらうことが必要だ、と東畑さんは本書を通じて指摘しています。ゆえに、聞く技術を身につけるだけでは十分ではなく、聞いてもらうための工夫が必要になるわけです。思いおこせば、デビッド・アウグスバーガーというメノナイトの牧会神学者の『親身に聞く』が日本語に翻訳され(すぐ書房、1988年)、平和づくりには対話が重要で、対話には聞くことが決定的に重要とされ、私もそう主張してきたのですが、35年たった現在、私たちの社会に聞く耳が育っているか、かなり心もとない思いがします。頑迷な自己完結ヤローなら最初から期待しませんが、一見おとなしく従順に聞いている人や、聞き方のスキルをずいぶん学んできた人にも、話が通じない人がいるのはなぜなのか、けっこう謎でした。本書を読んで、きっといつも聞くばかり/聞き方を教えるばかりで、本人が聞いてもらっていないから、聞く耳をもてずにいるのではないか、と思い至りました。ちなみに、アウグスバーガーの原著のタイトルは、親身に聞き 聞いてもらう(Caring Enough to Hear and Be Heard)でした。さすがですね。

ヒリヒリした対立のさなかにいて、相手の事情にまで思いをはせることなんてできるのか。ひとたび言葉がすれ違い、攻撃的になるなら、相手が悪魔的に見えてしまうのは避けがたいではないか。その通り。だから、最初に聞く役割を担うべきは第三者だと私は思う。…高みでも、中間でもなく、横に立つ第三者。そういう支えがないと、対話はできない。対立から変革が生み出されるのは、善き第三者がいるときなのだ。
『聞く技術 聞いてもらう技術』209〜211頁

神学校で平和学を学んだ私にとって、対話による問題解決というのにはどうしても引っかかるところがあります。対話ができるほどにお互いが冷静で、相手を思いやれるなら、そもそも問題はほとんど解決しているのではないか、しかも対話には「冷静であること」という条件がまずあり、感情的=攻撃的とみなされがちなのではないか、と感じていたからです。教会における対立は信仰をめぐるものとなることが少なくありません。そして信仰とは、頭で理解したことを本当だと考えること、以上のもの(つまり知性を超え出たもの)を伴う心の働きです。だから、たとえ理詰めで論破されたからといって、簡単に変えられるものではないかもしれない。頭ではわかっていても賛成できない、しかも賛成できない理由を言葉にできない「事情」があるのかもしれない。その「事情」に思いを致すことをしないなら、対話による解決を推し進めようとすること自体が、たいへん攻撃的・暴力的なふるまいなのかもしれないと思うのです。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜だけを食べています。食べる人は食べない人を侮ってはいけません。また、食べない人も食べる人を裁いてはいけません。…神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
「ローマの人々への手紙」14章1〜3、17節

これは、初代教会の指導者となったパウロが、ローマにある教会にあてて書いた手紙の一節です。キリスト教界では、難解な神学が書かれていることで知られていますが、私はこの手紙を(パウロの他の手紙と同様に)教会の中に平和をつくろうとして書かれたものだと捉えています。仲違いしている信徒たちに、クリスチャン同士、どうか仲よくしましょう、と勧めることが、この手紙のねらいであると思います。

ローマの教会で仲違いしていた信徒たちを、パウロは「強い人」「弱い人」とよんでいます。「強い人」とは「何を食べてもよいと信じて」いる人、宗教的な儀礼やしきたりに囚われない、自由な信仰をもつ人のことです。一方「弱い人」とは「野菜だけを食べて」いる人、入信する前の儀礼やしきたりを守りたいと考える人のことです。「強い人」にとっては「弱い人」が信仰について本質的でないことにこだわる形式主義者に見え、「弱い人」にとっては「強い人」が世人と見分けのつかない不信仰者に見えたことでしょう。信仰をめぐる保守とリベラルの対立、とみることもできそうです。

興味深いのは、この対立を諌めるパウロが、中立な第三者という立場に立ってはいない、というところです。彼は「わたしたち強い者は、強くない人たちの弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」(同15章1節)と言っており、自らを「強い人」の立場に位置づけています。食べたり飲んだりするものによって救われるとか穢れるとか、大切なのはそういうことではない、と明言した上で、しかし、互いを非難しあい、敵視しあうことの方をこそ忌むべきだと諭すのです。実は手紙の文脈からは、「弱い人」の方が信仰面ではベテランで、発言力も大きかったことがうかがえます。「強い人」は異邦人が大部分で、旧約聖書に親しんだ経験がなく、「弱い人」からは、こんなことも知らないの、なんて見下されていたかもしれません。そうじゃない、見かけにこだわらない信仰こそが強いんだ、とパウロは言いたかったのではなかったか、と私は想像します。東畑さんの「友人的第三者」という言葉から、私はパウロのこのたたずまいを思い起こしました。

「弱い人」は間違っているけれども受け入れるべきだ、というパウロの姿勢は「寛容」と言い換えることができるでしょう。「寛容」という言葉にポジティブな響きを覚える現代人は少なくないですが、中世ヨーロッパのキリスト教世界で発展した「寛容」の概念は、美徳というよりは妥協的な実践知でした。

寛容とはあくまでも悪に対する態度のことである。…人は、好きなものや嬉しいものに対して寛容になることはできない。…だから、寛容の出発点には、否定的評価がなければならない。その上で、それを容認するのである。否定も明確だが、容認も明確である。
森本あんり『不寛容論』電子版、77、81頁

最近、ケアの倫理ということが話題になっています。その背景には、自律的な主体という人間理解への反省/修正があるようです。人間は自我をもっていて、自分のことを自分でわかっていて、自分の欲しいものやしたいことを他者に働きかけ、交渉して、自己実現をしていくものだ、という前提で人間を捉え考えることが支配的だけれども、人間ってもっと不安定で傷つきやすいものじゃないのか、自分がわからない、首尾一貫しないことも含めて人間なんじゃないのか、という反省ですね。もし人間が自立した主体的な生き物であるなら、聞くことや聞いてもらうことで自我が確立したり強化されたりすることは考えにくいように思います。そうではないから、もっと不安定でうつろいやすい逆説的な存在だからこそ、聞くこと/聞いてもらうことの力が、いま見直されているように思います。

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