歴史の正しい覚え方(受験勉強じゃないよ)

「将来、あなたの子が、…尋ねるときには、あなたの子にこう答えなさい。『我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。…』」(申命記6:20-21、新共同訳)

聖書には、この世を創造した神と、神に創造された人間の関わり合いの物語が、一貫して描かれています。神は人間を造り、エジプトから助け出し、契約を立てられました。この契約を忘れずに覚え合うことで、神と人とのあるべき関係(シャローム)が保たれるのです。

ですから聖書は、人間が神の存在とわざとを忘れることのないよう、繰り返し戒めています。とりわけ申命記では、「あなたを奴隷の家エジプトの地から導き出された主を忘れないよう心しなさい」(6:12)として、自分が覚えるだけでなく、「子供たちにそれらを繰り返し教え、…この言葉を語り聞かせなさい」(6:7)と命じています。イスラエル民族にとって、記憶すべき神とは、出エジプトの神、解放の神でした。神によって奴隷状態から解放された。エジプトから導き出され、救われた。この出来事を忘れずに覚えることが、イスラエル民族のアイデンティティの根本にあります。言い換えるなら、人々がこうした神との特別な関係の由来を忘れ、神との関係を損なうことこそ、神への背きであり罪であるということになります。

聖書に描かれる神と人間のあるべき関係、私たちまで続く再洗礼派・メノナイトの歴史と伝統、かつて日本が行った戦争とそれへの反省など、平和教会のメンバーとして覚えるべきことはたくさんあります。しかし、これらをただ記憶していればよいのではありません。世界には、侵略を受けた歴史から、二度と侵略されない軍事大国になろうとする国々もあります。恐ろしい記憶がトラウマとなり、忘れたくても忘れられずに苦しむ人々もいます。歴史から都合のいい教訓だけを引き出すのではなく、痛ましい記憶に釘づけにされるのでもない、正しい歴史の覚え方が必要です。

記憶はいわば諸刃の剣のようなものです。神が人との契約を覚えていることは大きな恵みですが、その反面、人の罪とがを覚えていることは恐ろしい裁きでもあるからです。そこで神は、「まことにわたしは彼らの悪を赦し、彼らの罪をもはや思い起こさない」(エレミヤ31:34)とゆるしを宣告するのです。ヤコブの子ヨセフは、過去のつらい記憶から解放されたことを神に感謝して、最初の息子にマナセ(忘れさせる)と名をつけました(創世記41:51)。イザヤ書にも「お前は若いころの恥を忘れ、やもめ時代の辱めを思い出すことはもうない」(54:4)という、イスラエル民族を慰め、励ます神の言葉が出てきます。歴史を正しく覚えるためには、正しくゆるすこともまた不可欠なのです。

ゆるすということは、忘れてしまって思い出さない、という意味ではありません。過去の出来事をなかったことにはしない、しかしそれが私たちの現在および将来を方向づけるものとしては扱わない、ということです。かつてメノナイト教会も、異端のレッテルを払拭しようと他教派の教会実践を取り入れ、弟子の道や非暴力主義といった独自の信仰理解を「なかったこと」にしようとしたことがありました。最近では、再洗礼派の信仰理解が再評価され、他教派との対話の過程で、過去の迫害について謝罪を受けるようにもなりました。それに呼応して、とかく迫害と殉教の側面を強調しがちだったメノナイトの歴史認識を反省し、メノナイト教会の負の歴史にも目が向けられるようになってきています。兵役を拒否した宣教師によって始められ、迫害を経験してこなかった日本のメノナイト教会もまた、時代の流れにふさわしい、正しい歴史認識をもつことが求められています。

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