見出し画像

私たちの存在に意味はあるのか(その2)

日本列島は一部地域を除き、比較的四季がはっきりしており、風光明媚な景色に恵まれている。私は春夏秋冬どの季節も好きだが、とりわけ春と秋が好きだ。春は生命の息吹と躍動感を覚え、秋はとてもロマンチックな気分に浸れるからだ。しかしながらこうした情感は、あくまで私たちの脳が創り出している現象世界と意識との相互作用により創出される感覚にすぎない。私たちの脳が捉える森羅万象は私たちに見えているような姿で実在しているわけでは決してない。

確かに私たちが見ている世界の背景には「なにか」があるからこそ、私たちの五官(センサー)を通して脳がその「なにものか」を認識しているのであり、認識対象と認識主体との間にはおそらくなんらかの規則性があるものと推測される。しかしながら、認識対象が私たちが想像するようなモノとして実在するのか、はたまたそれ自体が私たちの脳に作用を及ぼす現象なのかさえ実は分かっていない。すべてが現象であろうとも時間と空間(あるいは相対論的な時空)だけは確実に存在するはずだと考えている人が少なくないはずだ。しかしながらループ量子重力理論によるとその時空さえ、より基本的な「関係性」のネットワークから二次的に導出される概念にすぎない。つまり時空を含む森羅万象は一切実在せす関係性のなかで創出される現象にすぎないというわけだ。

さて、ここで私自身の存在の意味を考えてみたいと思う。私は広大無辺の時空のある1点で生まれ、そして死んでいいくのだろう。私の亡き後、生き残った人たちも数十年、たかだか百年足らずのうちに消滅し、さらに月日が流れ、私の存在の痕跡はこの世から完全に消え去るのだろう。歴史的な人物であればその後も一定期間人々の記憶に残り続けるかもしれないが、いずれ人類は絶滅するであろうし、さらに月日が流れれば、やがてこの太陽系さえも消滅してしまう。確かにそれまでには気の遠くなるような時間が存在するような気がするが、はたしてそうなのだろうか。

時間は私たちの意識を離れた瞬間、私たちが一般的に考えている「時間」とは全く異なる様相を帯びてくるはずだ。そもそも前述したように物理的な時空が存在するかどうかさえ分からない。もし死によってすべてが雲散霧消してしまうのであれば、私たちがこの世に生を享け、そして死んでいくのと、最初から生まれてこなかったのと、いったいなにがどう違うというのか。私たちがかつて確実に存在したことを保証してくれるなんらかの「視点」が存在しなければ、広大無辺の宇宙の中で私たちの人生はいったいなんの意味があるというのか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?