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その存在を確かめることのできない存在者たち

私が住んでいる地域から夜空を見上げても普段あまり星は見えないが、地方によっては満天に降り注ぐ夥しい数の星々を眺めることができる。以前旅した東北の三陸海岸やインドのタール砂漠で夜空を見上げたときに燦然と輝くあまりの星々の多さに圧倒されそうになったことを覚えている。

これほどまでに私たちの心を魅了する星たちではあるが、現在私たちに見えている星の光は実は過去に発せられたもので、気が遠くなるくらいの年月を経てようやく私たちの網膜に届いたものなのだ。私たちの周りに広がる宇宙は現在の姿ではなく過去の姿であり、私たちは現在ではなく過去の宇宙の姿を見ているのだ。

もっと正確に言えば、私たちの周りに広がる世界(神羅万象)はすべて過去の世界だ。ただ普段の日常生活において接するモノはわずか1秒足らずの過去の世界なので、それを「現在」とみなしても全く違和感がないだけなのだ。すなわち私たちの周りに広がる物理的空間は正確には「時空」と呼ぶべき存在で、最終的に私たちの脳が万物が発する光(=電磁波)を感知して捉える以外にその存在を確かめる方法はなく純粋空間(=絶対空間)とか純粋時間(=絶対時間)といったものはあくまで概念上の産物にすぎない。

このように述べていくと「でも例えば、地球から数千光年離れた系外惑星に私たちと同じような、あるいは私たちとは似ても似つかない知的生命体が生息しているとして、たとえ私たちが生きている間にお互いに相手の存在を確かめ合うことが不可能ではあっても(もちろんお互いの遠い子孫同士が相互にその存在の痕跡を確かめ合うことは理論的には可能だが…)「まさに今現在この瞬間にも系外惑星に知的生命体がきっと生息しているはずだ」「たとえ光速の壁を越えられなくても "今現在の宇宙的拡がり" は間違いなく存在しているはずだ」「存在しているのにそれらが私たちから見て永遠のブラックボックスになってしまっているのだ」と思われる方が少なくないのではないか。

存在するのに私たち人間には決して捉えられない世界は間違いなく存在する。それどころか私たちの脳に捉えられない世界が実は殆んどなのではないか。たとえ存在しても決して捉えられないのであればそもそも「存在する」とか「存在しない」とかいう議論自体にどれほどの意味があるのか分からないが、私たちの周りには「その存在を決して確かめることのできない存在者たちで満ち溢れている」ことだけは間違いない。

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