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    凍てつく大地   (3)                青春を奪われたシベリアから帰還して

    話し手   鈴木登
   
(カバー写真は、葛飾区東立石にあった鈴木さんの牛乳配達店)

   ❒解放され、引揚げ船信濃丸に乗船
 
 そこでの生活が1年程経ったとき、誰かが新聞にオーストリアの捕虜が解放されたという記事を見て、皆に知らせてくれたんですよ。ロシアではけっこう読まれているウズベスチャという一般紙に出たんですね。それなら、我々日本人も、そのうち解放されるんじゃないかと話しあいました。
 
 その期待は当たったんですね。それからわずかのうちに、私たちは貨物列車に載せられてナホトカの収容所に移りました。ロシア側からは、日本に帰すとの話は1度もなかったですけど、ナホトカの収容所は帰還収容所で、日本に帰国させる者の収容所だったんですよ。そこにいたのは1週間程度でしたが、かって同じ収容所で一緒だった人2~3人に人とも再会して、言葉を交わし合いました。 
 
 ナホトカに来て1週間後、港で関東軍の信濃丸という引揚げ船に乗るため、港で船に乗るのを待っている時でした。自分の名前を呼ばれた引揚者が、1人また1人と船に乗っていくんですが、待っている人が少なくなってきてるのに、自分の名前はなかなか呼ばれないんですね。
 
 「自分は乗って帰れないのか」と思って、一瞬がっかりしたんですよ。そしたら、「グラジダンスキー」ってロシア語で声をかけられたんですね。それは、「一般人」という意味のロシア語なんですよ。軍人を最初に呼び、一般人を後に呼んでいたんです。
 ロシアで受けた裁判も極東軍事裁判でしたし、自分は軍人として掌握されていると思っていましたから、「なんだ、自分は一般人だったのか」とびっくりしたんですね。それでも、これで帰れるとホっと胸をなでおろしましたよ。
 
 私はロシアにいた当時、「自分が日本に帰れることはないだろう、日本の犠牲になって、ロシアでこのまま死ぬのかな」と思っていましたからね。ロシア側にスパイだったことも、知られてしまいましたしね。ですから、これで帰れると思うと、とにかくうれしかったですね。
 
 ナホトカから信濃丸に乗ったんですけど、陸から3マイルまではまだロシアの領土の中だったんで、おとなしくしていたんですね。でも、3マイルを過ぎるとロシアの監視員も船を降りたでしょ。そしたら、自然に捕虜は捕虜同士、他の人たちも仲間同士で集まってにぎやかになってね。みんなが、日本に帰れることを喜び合っていましたね。
 
   ❒舞鶴港に帰国
 
 舞鶴に着いたのは、翌日の昼でした。港には、出迎えの人も来ていましたね。復員局の人が、県の名前を書いた紙を持って待っていたんで、その人について港の施設に出身県別に作られていた復員局の事務所に連れていかれました。そこで、復員者の名簿に本人であることの確認チェックをしたんですよ。
 
 そこには、捕虜となった人の写真が飾ってあってね。その写真を指差して、この人を知らないかと聞かれたり、郷土の知っている捕虜の名前を教えてくれとも聞かれました。復員局の人から何か話を聞いたんですが、内容は忘れちゃいましたね。やっと自由行動ができるようになったのは、その場が解散になってからでした。 
 
 その復員局の場所には、全国各地の品物が売られていました。復員局からは、1人1人に2千円の金がもらえたんでね。大した金だと思ったんで、りんごでも買おうかとその売り場に行ったら、1個百円もするじゃないの。昔は20銭位だったでしょ。びっくりして、こんなの食べられないと思いましたが、1つ買って同僚と半分ずっこして食べましたよ。その同僚は、九州の人間だったですかね。
 
 舞鶴では、実家までの旅行券をもらいました。私は東京ではなく、福島の実家に向かいました。東京は焼け野原になっていましたし、東京に出ていた兄弟も福島に疎開していましたからね。
 
   ❒帰国を喜んでくれた家族
 
 私が帰ることは、家族は事前に知っていましたよ。NHKのラジオで、名前が放送されましたからね。それで「京都で待ってます」と家族から電報があって、迎えに来てくれた4男と京都で会ったんです。その兄から「これは、うちの前の川で捕った魚だよ。懐かしいから食べな」って、魚とおにぎりを一緒に渡されたんですよ。汽車の中で食べました。ロシアでは、食事らしいものは何も食べれなかったでしょ。おいしかったですね。
 
 家族は帰国しない私のことを、おそらくロシアに捕まって捕虜として生きているとは思っていたでしょうね。それでも、満州にいた時には、手紙や金を送ってきたのに、急におとさたがなくなって数年間が立っていたのですから、心配していたと思いますよ。ですから、皆私の帰国を本当に喜んでくれましたね。
 
 帰国した昭和25年は、終戦から5年が経っていて、もう平和になってきていましたね。朝鮮動乱も終わりかけていましたから。日本は景気が良くなってきていたんで、私は本当に苦しい時期のことを何も知らないんですよ。
 
 昭和25年に私が帰国した後のシベリア抑留者の帰国は、昭和27年でした。その時の帰国者の名前を新聞で見たら、私が裁判を受けた後に入った日本人だけの刑務所で一緒だった福島県出身の人の名があったので、上野駅まで会いに行きましたね。石川さんという床屋さんをしていた人で、収容所で散髪をしてもらったんですよ。何らかの理由で樺太に渡り、そこでロシアに捕まって捕虜になったと聞きました。上野駅で久しぶりに会ったんですけど、向こうは早く帰りたいのにゆっくり話すわけにいかないでしょ。弁当とお茶を買って、持たせてあげましたね。
 
   ❒GHQに呼び出され、ロシアのことを訊かれる
 
 私は、戻った実家でゆっくりと休めていたんですけどね。1か月が過ぎた頃、GHQから来るようにと呼び出されたんですよ。宮城(皇居)の前、日比谷公園近くにあったGHQの本部ビルに行きました。今は、確か第一生命ビルになってますね。
 
 そこで、ロシアの様子をいろいろ聞かれました。私に聞いた人は、ハワイ出身の日系2世の人でした。川がどの位あって、川幅や深さはどの位だったか、建物の様子や大きさ、気象状況など、数量的なことを細かく聞かれましたね。
 「3日分のコメを持ってこい」って言われたんで、3日で終わると思っていたら、1か月もいたんですよ。「鈴木さんは詳しいから」って言われてね。そりゃそうですよ。捕虜になった日本人は30~40代の人が多かったのに、私は若い20代の時期に、4年半もロシアにいたんですからね。
 
 しかし、日本に戻りロシアの話をすると、「赤だ。共産党になった」と言われたんですよ。腹が立つんで、「若い時期にロシアにいたので、日本のことがわからないんだからしょうがないではないか」と弁明に歩きましたね。 
 
東 京のGHQで話を聞かれたときは、大本営、昔の参謀本部に泊まりました。ベッド式の部屋で、食事も出してくれてね。1日2ドル(1ドル360円の時)の金をもらいました。いい待遇でしたよ。「遊びに行きましょうか」と言われて映画館に行ったり、日曜日に3、4回位、車で浅草、銀座などを回ったりもしてね。
 それが終わって実家に戻ったら、今度は福島県のGHQから呼び出しがあってね。その時は1泊2日でしたが、東京の時と同じようなことを聞かれました。
 
 私がロシアで見たりしたことを、GHQがこんなに細かく聞いてくるのにも驚きましたが、それだけ私のロシアでの経験が貴重だったんでしょうかね。
 
   ❒抑留者として表彰を受ける 
 
 復員兵には、帰国して2~3年後に1万5千円が商品券の形で支給されました。その後帰国して20年以上経った時に牛乳を配達していた時に区役所で、シベリアに抑留していたことを話したら、役所の職員から金がもらえると聞いたので、申請して5万円分の商品券をもらいましたよ。
 さらに、平成元年に当時の海部総理大臣から抑留者の慰労として菊の御紋の入った銀杯をもらい、平成23年には菅直人総理大臣から表彰されました。自分では、寒さとろくな食事を食べられないひもじさの中を、なんとか生きて帰って来られただけのことで、表彰を受けるようなことをしたつもりはないんですけどね。
 
 私はいなかったからわかりませんが、寒いロシアに捕えられたといっても、自分は日本の空襲のように、敵から爆弾を落とされたりする危険な目にあったことはなかったですからね。ノルマさえやっていれば、まずい物でも何かは食べれましたからね。日本の方が、大変だったんじゃないかと思いますね。
 
   ❒砂利を取る仕事に就く
 
 ロシアから戻って、1年位経った時でした。郡山の市議会議員だったおじさん(父の弟)が、友達の日東紡福島工場の社長にシベリアから「帰ってきたうちの甥に何か仕事をさせたい」と相談したんですよ。そしたら、その社長は会社からは出せないからと、奥さんのポケットマネーで50万を出してくれたんですね。郡山から会津に向かう磐越西線沿いにある岩城熱海という温泉地に、砂利を取る会社を作り、いとこ(そのおじさんの娘婿)と一緒にそこで働かせてくれたんですよ。
 
 それまでは、主に川から砂利を取っていましたけど、それが取れなくなってきたんで、山を爆発させてそこから砂利を取るんですね。その砂利は、線路に敷くのに使うのと、石綿の原料になるんですよ。貨物列車で東京に運び、東京の工場で加工するんです。1か月5千円でしたから、当時としてはいい給料だったですよ。
 
   ❒挨拶で訪ねた羽田の親戚の鉄工所で働く
 
 砂利の仕事を始めた翌年の正月、いとこが東京の五反田に住むおじさんのところに正月の挨拶に行って帰ってきたんで、私もいとこと交代して東京に挨拶に出かけたんです。羽田で鉄工所をしていた親戚の人がいるんでね。良く実家に来ていて、「遊びに来い」と言われていたんで尋ねたんですよ。そしたら「せっかく来たんだから、一緒に行こう」と言われて、横浜へ遊びに行ったんです。
 
 行った先は、現在の横浜県庁にあった米軍の入札所でした。その鉄工所は、米軍が朝鮮動乱に使う兵器を作るための部品となるボルトやナットの調達をやっていたんですね。そしたら、親戚の人に「自分は英語がかけないから、書いてくれ」と言われ、入札の書類に私がサインしたんですよ。田舎に帰ってしばらくしたら、羽田の親戚から「入札の時にサインしてもらって、納めた製品の金がもらえないんで、サインをしに東京へ出てきてほしい」と実家に電話がかかってきたんですよ。後で米軍から小切手が送られてきたので、親戚の人が小切手のとおりのサインを書いて渡したら、「入札の時のサインと字が違うので、金は払えないと言ってきたんですね。19万円入るはずだったんですよ。
 
 それで、再び羽田に行ってサインしたら、「1万円払うから、うちで働いてくれ」と頼まれたんです。砂利の仕事は、ロシアでやったのと同じ土方の仕事でしょ。日本に戻ってまで、そんなことはやりたくないと思っていたんでね。給料も倍になるんで、そこで働くことにしたんですよ。いとこには、何も言わずに砂利の仕事をやめちゃったんですけどね。叔父さんやいとこからは、別段何も言ってきませんでしたね。
 
   ❒結婚

 その時は羽田の工場の2階にあった寮に住んでいましたが、翌年の昭和27年の春29歳で結婚して、同じ羽田のアパートに引っ越したんです。28歳で東京に出てきた時、おじさん(父の兄弟の末っ子)から、同じ町に住む家内の家が、結婚相手を探しているとの話は、実家では聞いていたんですね。それで、羽田の鉄工所で働く前に家内の家に見に行ったんですよ。1年経って結婚したんです。
 

結婚した当時の鈴木さん夫婦(鎌倉にて)

  ❒独立して1人で鉄工所を始める

 羽田の親戚の人の仕事は、1万円の給料がもらえたんですけど、2年半でやめちゃったんです。勤めより商売の方が儲かるし、面白いなと思うようになったんですね。だってね。自分が親戚の人の工場で1か月間かけて作ったボルトとナットは、売値が50万になっていたのに、私の給料は月に1万円だったんですからね。材料の鉄の値段がいくらかは教えてくれませんでしたけど、工場で出た鉄くずで周辺の土地を200坪も購入したんですね。それを知ったら、勤め人なんてばかばかしいもんですよ。

 それで、結婚して半年ほどしてから独立し、自分で鉄工所を始めたんですね。やはり、ボルトを作って売ったんですよ。ボルトしか知らないんですから。始めの頃は下請けに作らせたんですけど、そのうち自分でも、ターレットという機械でボルトを作って、建築関係者や商店に売ったんですね。
 
   ❒始めた鉄工所は不渡りをもらって倒産
 
 始めた鉄工所の商売の方は、順調でね。いいなと思っていました。ところが、半年位経ったとき、3か月経てば金になるはずの15万円の手形が不渡りになっちゃったんです。その時は、私は商売を始めたばかりでしたから、手形をどう割るかも知らなかったんですよ。
 でも、私は手形をもらっても、相手が金を振り込むまでに現金にして使わなかったから良かったんですよ。他人も使わずに自分1人で鉄工所をやっていたから、人件費もかからなかったからね。
 
 ロシアの方が大変だったろうって思うでしょうが、この時が人生の中で一番つらかったですね。サラリーマンだったら、1年半から2年分の給料が支払われないのと同じですよ。その当時は、家だって1軒が5万円で買え、1坪の土地が1000円もしなかったんですからね。家内は困った様子はあまり見せませんでしたけど、長男も生まれてたでしょ。大変だったと思いますよ。
 
   ❒昼だけでなく、夜も地下鉄工事の仕事で働く
 
 それで事業を辞めて、新潟鉄工所という所で事務の仕事に就きましたが、給料は1か月1万円にもならなかったんで、1年もせずにそこもやめちゃいました。とにかく、金を稼がなくちゃいけなかったですからね。
 
 小林製作所という会社に勤めて、旋盤でギアーなどを作る仕事をしましたが、それだけじゃなく、夜の10時~早朝の4時には、地下鉄工事の仕事もして働きました。日本橋や大手町が現場でしたよ。溶接の工事が私の仕事でした。
 
 羽田のアパートは、不渡りを出してから家賃を払うのが大変でね。それを聞いた人が見つけてくれて、今までより3畳くらい広い蒲田の1軒家に、月5千円で住めるようになったんです。
 仕事の方は、昼と夜の2つ掛け持ちで働くのが1年位続きました。生まれて4か月で2男にも死なれてしまってね。大変だったです。
 
 私の生活が厳しいのを見て、近所の友人が小学校にお願いしてくれて、長男の給食をただにしてくれたこともありました。私は知らなかったのですが、子供が「先生から、これから給食費は払わなくいいと言われた」というのを聞いてわかったんです。でも、子供が、「自分だけがただになるのは嫌だ」というので、払うことにしましたけどね。
 
   ❒無条件で江戸川区の都営住宅に入れる
 
 良いこともありましたよ。私が引揚者なので、無条件で江戸川区の都営住宅に住めるようになったんです。蒲田よりも1間多いのに、3千円で入れたんです。都営住宅に引揚者が優先的に入れることを知らなかったんで、これまでは入居申請できなかったんですが、たまたま読んだ新聞にそのことが載っていたのを読んだんですよ。
 
   ❒誘われた友人の元で牛乳の仕事を始める
 
 その頃、牛乳販売の拡張の仕事をしていた人から、やってみないかと日曜にセールスの仕事に誘われたんですよ。
 
 やろうとする地域に数人で行って、各家庭に飛び込んで頼んだんです。1本頼めると200円をもらえたんですね。ラーメンや焼きそばが40円位で食べられましたから、当時に20円した牛乳は高価だったと思いますよ。
 
 それなのにやってみたら、他の人ができないのに、私は初日に18本も契約が取れたんです。昼飯と交通費は販売店持ちなんですから、こんなに良い仕事はないと思いましたね。それで、昼の製作所の仕事はやめて、毎日のように牛乳の営業に歩きました。夜の地下鉄工事の方は、しばらくはしてましたけどね。
 
   ❒明治牛乳本社普及部に入社し、依頼された販売店の拡張に歩く
 
 誘ってくれた友人の元での牛乳のセールスの仕事は、3か月間したんですけどね。これでは将来性がないので、明治牛乳の本社の普及部に入社したんですよ。そこに行くと、当時都内にあった840の牛乳販売店から、営業に来てほしいと依頼が来ているんですね。頼まれた店に行って、牛乳の拡張をしてあげるのが仕事なんです。交通費は店が出し、手間賃は本社が出してくれたんです。
 
 頑張りましたよ。1日50本1万円が目標でしたが、ほぼ達成していましたね。普及部には、私と同じセールスの仕事をしていた人が30人ほどいたんですが、1日50本近くの契約を取っていた人は、私を含めて2~3人位だったんじゃないですか。
 

明治牛乳本社普及部の仲間と(前列右から二人目が鈴木さん)

                     
   ❒販売店の支店の商売を任され、住み込みで働く
 
 牛乳の拡張の仕事に自信が持てるようになってきたとき、7店舗の支店を持っていた桑原さんという人が、青戸支店で商売してくれる人を探していることを聞いたんです。独立して自分1人で拡張の仕事をしようと思っていたので普及部を辞め、配達する牛乳1本当たり1円を桑原さんに支払うことで、その青戸支店で働くことにしたんです。   
 普及部には1年しかいませんでしたが、15万円の退職金をもらいましたよ。青戸支店で働きだしてから、住み込みでやってほしいと言われたんで、江戸川から引っ越してそこに住んで働くようになったんですよ。
 
 明治牛乳の良さを知ってもらうため、お客さんを連れて毎年秋に工場見学もしましたよ。本社普及部に勤務してたので、見学者には明治の本社が車を用意してくれることを知ってましたからね。本社と交渉して、車と運転手、ガイドをつけてもらったんです。運転手とガイドに渡すチップと弁当代は、自分が払いましたけど、後は支払いはすべて本社が出してくれるんですよ。
 
 工場を見学して時間に余裕のある時は、近くの観光地などにも寄ってもらったので、参加したお客さんには喜ばれましたね。他の店では、こんな企画はどこもやってなかったでしょうね。東立石の自分の店を持ってからは、忙しくなったので見学はできなくなってしまいましたけどね。でも、2~3回位はやりましたかね。
 
   ❒48歳で牛乳販売店を購入
 
 ある時、桑原さんが、支店からもらっている1本当たり1円の金を、2円に上げると言ってきたんです。支店は、どこも皆反対しましたね。私も、桑原さんから2年間は1円のままにすると聞いていたんで、約束が違うと腹が立ち、後の仕事の当てもなかったんですが店を辞めたんですよ。
 
 そしたら、程なくでしたね。保証牛乳が、学校給食に腐った牛乳を出してつぶれる事件が起きたんです。その事件の後、東立石の保証牛乳の販売店の小林さんが店をやめたがっていたので、私が店の権利を購入して、明治牛乳の販売店として商売を始めたんです。48歳の時でした。
 
 私が店の権利を、小林さんが配達していた牛乳1800本について一本当たり千円で購入すると言ったので、小林さんからは喜ばれましたね。それから、その東立石の販売店の家も、私が購入したんです。その店は、小林さんが購入したものでしたが、ローンの残額の500万が払えないというので、私がその金を払って購入したんです。
 
 購入に際し、地元の信用金庫が1800万円を貸してくれることになったんですけど、「保証人は葛飾に住む人にしてもらいたい」と言われたんですよ。私は、葛飾に知り合いや友人はいませんでしたから、この時は困りましたね。そしたら、これまでの持ち主であった小林さんが保証人になってくれたんですよ。
 
   ❒交通事故で足を骨折しても、休まず息子と共に牛乳を配達
 
 いよいよ自分の店が持てたので、その時は何としても商売を成功させて見せると張り切ってましたね。やる気満々で始めたでしょ。それなのに店を持って5日目、配達中に後ろの車から追突される事故にあっちゃったんですよ。左足のひざから下の2つのある骨の細い方の骨、腓骨って言いましたかね。その骨を骨折しちゃって救急車で奥戸病院に運ばれたんですけど、ぶつけた車には逃げられちゃったんです。
 
 医者からは入院するように言われたんですけど、配達をしないわけにいかないですからね。1日だけ入院して、翌日から配達に出ましたよ。大学生だった長男を車に乗せ、届ける家の近くで止めて息子に配ってもらいました。
 
 その時、長男は大学の3年生で、ちょうど卒論を書いていたんですけどね。「大学は、8年間行けるから大丈夫だ。牛乳が配達できなかったら、お前も生活ができなくなる」なんて言って、息子を説得して手伝ってもらいました。その時に、息子に免許も取らせてね。
 
 息子には、1年間配達をしてもらいました。無茶なことを言って、息子には1年留年させてしまったんですけどね。でも、息子は文句も言わずに手伝ってくれたんで助かりましたね。鉄工所では失敗したんですから、2度と失敗はしたくなかったですからね。牛乳配達店の仕事は、朝が早いですから、私は夜中の12時頃には起きて、店に出ていましたよ。
 
   ❒営業に力を入れ、東京トップの配達本数を達成
 
 自分の店が持ててからは拡張に力を入れ、年々配達本数を増やしていきました。配達に出かけるときは、余分な牛乳を必ず持っていって、出会った人には飲んでくれと渡しました。従業員にも、その牛乳は牛乳箱に入れておいたりするんじゃなくて、必ず人に手渡すように言いました。後日、どうでしたかと感想を聞いて取ってもらうように勧めるんですね。
 
 配達をしている従業員も、牛乳は取ってくれたお客の家には自分が配ることになるんでね。自分が営業したお客に責任を持って配るという意識を持ってやってますから、やりがいを感じて真剣に取り組んでくれるからいいんですよ。
 
 うちでは、新製品の牛乳が出ると、これまでの製品をやめてそれ1本に絞って拡張に頑張ってきました。これまで他の牛乳を取ってくれていた家庭にも、新製品を勧めたんです。新製品の牛乳を取ってくれたお客さんには、初めの契約期間はこれまでの牛乳と同じ値段にサービスしたんですね。新しい製品は今までのものよりここが違うんだとPRすると、そうかなと聞いてくれる人も多かったし、会社も喜びますからね。今までの牛乳の方がいいと言った人には、これまでどおりの配達にするしかないですけどね。 
  
 その結果、配達本数は葛飾の販売店で1番になり、立石から水元まで配達地域が広がったんですね。区役所の中も、東立石に来たころに開拓したんですよ。2階から4階まで職員のデスクに配達し、区役所の建物の中だけで1日4000円の売り上げになっているんです。青木元区長、その前の小日向区長にも区長室に配達してたんですよ。
 
 こうやって拡張に力を入れたので、うちの店は、配達件数が1万5千件、本数は1日当たり3万本と、東京トップの配達店になることができたんですよ。
 
   ❒近隣以外にも遠慮せず、営業に歩く
 
 販売地域を広げるとその地域の牛乳屋から、自分の配達地域に勝手に入ってきたと嫌がられると思うでしょ。そういった縄張り意識があると思うんですが、私は嫌な顔をされても、気にせずどこでも営業に歩きましたよ。もし、地元の販売店が何か言ってくれば、私は「あんたは、何年店をやってるんだ。他の業者に入ってほしくないなら、地元のあんたがこれまでに拡張すればよかったではないか」と、言ってあげるんですよ。
 
 スーパーの進出などもあって、これからの販売店は縄張り意識など捨てて拡張に頑張らなくちゃやっていけませんからね。販売店の組合員達にも、金曜の午後など週1回は営業の仕方を教えてあげると言って、あえて殴り込みをかけるように他の牛乳屋の地域などに一緒に営業にも歩きました。
 
 参加した販売店が牛乳をそれぞれ持参して、飛び込んだ家の人などに渡してね。取ってくれる人には、その人に勧めた店が配達することにしたんです。そうすれば、縄張り意識なんてなくなりますからね。
 
   ❒全国で初めて牛乳の隔日配達を実施
 
 頑張ったおかげで、支店数も増えていきました。配達箇所が増えて大変でしたが、それができたのは、毎日の配達から1日おきの隔日配達に変更できたからです。1日おきの配達にする分、1度に2日分配達したんですね。金曜、土曜に配達するときは、日曜が休みなので3日分配達しました。勿論、取ってくれているお客さんが了解してくれたんでできたんです。
 
 それで、配達する従業員を少なくして、人件費を減らせましたからね。東立石の店の借金も、それで返せたんです。この隔日配達は、東立石の店に移ってすぐに始めましたが、それをしたのは全国でもうちが初めてでした。今では、どの店もそうするようになりましたよ。
 
 配達するときも、お客の家の牛乳箱や玄関先等にただ置いてくることはしませんでしたよ。牛乳瓶をむき出しで置くんじゃなくて、袋に入れて取り出しやすいように注意して置きましたね。
 
 隔日配達しましたから、配達本数は2本以上になるでしょ。袋に入れれば、何度も手を伸ばさなくても取り出せますからね。瓶をむき出しで置くと、滑ったりしてつかめないこともあるしね。袋は消耗品代として、会社が払ってくれましたからね。ちょっとしたことですけど、お客さんはこちらの気持ちを感じてくれるんですよ。
 だから途中でやめずに、ずっとうちから取ってくれるお客さんが多かったんだと思いますね。
 
   ❒牛乳だけでなく、野菜も配達
 
 牛乳の配達だけじゃなく、野菜も配達するようになったんですよ。私が始めたときは、じゃがいもだけでした。北海道のホクレンから買ったんですが、牛乳を配る時にチラシを一緒においてきてね。それで、申し込んでもらいました。
 
 昭和の末頃には、明治牛乳の販売店の組合でも野菜の配達を始めたんですよ。明治牛乳販売店には、本社から補助の金がもらえるんですが、販売店としてもそれに頼らない自立した商売をしようとやることになったんですね。
 
 年寄りの世帯が増えてますから、大根、白菜、キャベツなどの重くてかさばる野菜は、特に家まで配達すると喜んでくれるんですよ。
 
   ❒3男に経営を引き継ぎ、株式会社としてスタート
 
 そんな中、平成元年に西ドイツの印刷会社の出版部に勤務していた3男が日本に帰ってきたんで、やってみないかといったら牛乳屋の仕事を引き受けてくれたんですよ。
 
 3男は中学生の時、東立石の店で自転車で牛乳配達をしていたこともあったんですね。それで、3男を社長にして店を有限会社から株式会社にし、会社名を「株式会社モルゲン」としたんですよ。でも、私は息子に経営を任せてからも、健康のために85歳まで、車を運転して牛乳を配達していましたよ。
 
  ❒140坪のおもちゃ工場跡地を購入し、東新小岩に店を移す
 
 東立石の店では、20年商売をやらせてもらいました。でも、商売を引き継いだ息子に、自動車の音がうるさいという苦情が来るようになったんです。夜中の2時頃から、入れ替わり立ち代わり自動車が来て、牛乳瓶がぶつかるガチャガチャという音を出してましたからね。私が一人でやっていた時は、苦情は言われなかったんですけどね。
 
 それで場所を探したら、東新小岩のおもちゃの工場だった場所が売りに出されたことを知りました。140坪の土地と3階建の建物が2棟あってね。何よりも後ろが公園で、両隣がガソリンスタンドとタクシー会社の修理工場で、しかも前が道路と、四方に住宅がない場所なんですよ。これなら少々の音を出しても平気だと思ったんで購入したんです。
 
 金額は1億3千万でした。息子名義で、信用金庫が金を出してくれたんですよ。年々販売量を増やしていたから、信用してくれたんでしょうね。冷蔵庫を入れるのも、1千万位かかりましたね。
 
   ❒営業専属族社員を含め、従業員は70人
 
 従業員も青戸で店を始めた時は自分1人でしたが、今は70名ほどの職員になりました。一時は120名もいたんですよ。うち、20人に営業マンとして牛乳拡張のセールスをしてもらっているんです。個人の配達店で専属の営業マンをおいている店は、他所ではやっているところはないと思いますね。うちが50人近くの人間で、1万5千軒に配達するようになれたのは、そこが他の店と違うんですよ。
 
 従業員の給料は、本数による歩合制を取っています。やる気を出して頑張った者には、待遇を良くしてあげなくちゃね。配達は、以前はアルバイトも使いましたが、赤帽って知ってますか。個人の運送業者です。東立石の店をやって3年目からは、その赤帽にやってもらっています。
 
 従業員には、10日の病休を与え保険に加入してもらったりしていますが、皆良く働いてくれています。うちは、やめていく人がいないんですよ。忘年会、新年会などの飲み会を行い、バスを使った一泊旅行もしていますよ。何人かに、行きたいところを聞いたりして場所を決まるんですけど、日光や鎌倉などにも行きましたね。
 
   ❒配達に使う車は電気自動車を含めて40台
 
 今は、自動車40台で配達しているんです。配達には、電気自動車も使っているんですよ。電気自動車はヒーターをかけて温めるので、寒い冬はヒーターが上がって電気を喰うでしょ。電気がなければ配達できませんよね。でも、充電できる場所がないんで困っていたんです。そしたら、明治牛乳の会社が、自分の店で充電できるように援助してくれたんですよ。
 
 
   ❒一時は支店を含む7つの店を持つ
 
 支店は、東新小岩に移ったときは、小菅、墨田、江東、松戸、横浜、町田と6店舗になっていましたね。スーパーなどが増えて、お母さんたちもスーパーやコンビニで牛乳を買うようになったでしょ。だから、店をやめる販売店も出てきたんですよ。明治牛乳の普及部にいた当時、840軒だった都内の販売店は、今は3割か4割に減ってしまいました。うちは、そのやめた店を購入して支店を増やしたんですよ。
 
 売れなくなってやめた店を買って、大丈夫なのかって思うでしょ。ほとんどの販売店は、親から引き継いだ店を維持することしか考えておらず、拡張なんかしていないんですよ。だから、スーパーが近くにできれば、お客を取られてやっていけなくなるのは当たり前ですよ。私は負けず嫌いですから、スーパーなんかに負けたくないと思って、拡張にがんばりましたからね。
 良かったのは、中身は同じなんですが、スーパーで販売する紙パックの牛乳より、私らが配達するビンの牛乳の方がうまいと言ってくれる人が多かったことですね。 
  
 一時は本店、支店を加えて7店の店があったんですけど、管理が行き届かないんでね。その後、江東区、墨田区等へは新小岩から配達することにして、松戸と小菅の2支店にしました。でも、先日息子から、また江東区に支店を購入したと聞きましたよ。息子に仕事を任せて10年経ったとき、4億だった年収は今は7億になり、販売量は東新小岩に移った頃に東京トップなる事ができました。
 
   ❒拡張コンクールで毎回のように表彰される
 
 昭和62年9月~10月の販売数の拡張コンクールで、全国7位になって表彰されるなど、春と秋の2回だったかな、そのときに行われる拡売コンクールでは、絶えず賞をもらえるようになったんですよ。1年おきですけど、表彰を受けた人は、夫婦で海外旅行に連れていってくれるんです。
 

鈴木登さんと奥さんの清子さん(平成22年)

 私も、家内が動けないようなったので行かなくなりましたが、80歳位までハワイ、アメリカ、台湾などに行かせてもらいました。今は、息子が海外旅行に行かせてもらっていますよ。確か、スペイン、イギリス、ドイツ、オーストラリアなどに行ったんじゃないでしょうか。
 
   ❒良くやってくれている後継ぎの息子
 
 後を継いでくれた息子も良くやってくれてますので、私は特に心配することはなかったですね。それまでやっていたのは出版の仕事で、日本に帰ってきたばかりでしたから、経営のことなどは何もわからなかったと思いますよ。しかし、わからないことがあれば私にも良く聞いてくれましたからね。3男も私に似て、食いついたら離さない負けず嫌いですから、私の後もさらに店を大きくできたんだと思いますね。
 
   ❒現在もお酒を楽しむ
 
 今は、お世話になった明治牛乳などの株を少し持っているんで、毎日の株の情報なんかを聞いたりして、他にやることもないんで我が家でブラブラしてるんですよ。健康状態ですか。特に何の問題もありませんね。血圧が昨年は上が140位とちょっと高かったんですけど、今は下がって120位でちょうど良くなってるんですよ。
 
 春に腸にポリープができていると言われたんで、取ってもらったんです。普通は日帰りで手術できるんですが、年を取っているからと1泊入院してやってもらったんですよ。それまでも、毎日風呂に入ると350CCのビールを1缶飲んで、足りないときは酒をコップ1杯位は飲んでいたでしょ。ポリープを取ったので、2週間ほど飲みませんでしたけど、飲みだしたら今はビールがとにかくおいしいんですよ。
 
 私の親と兄弟は全然アルコールは飲まないんですよ。私は、満州のハイラルにいた時、寒いんで自然に覚えたんです。友達に誘われてね。街を歩くと、必ず日本人がいてね。飲める店には、どこにでも日本酒はありましたよ。最初の頃は、悪酔いしないようにバターをなめて飲んでいたんですよ。でも、大丈夫だったんですね。友達には、「なんだ鈴木、飲めるじゃないか」って言われました。ハイラルでは、2升位の酒はいつも部屋においていましたね。
 
   ❒負けず嫌いで、新たな目標に挑戦
 
 良く、寒いシベリアでの捕虜の生活に耐えられたのはなぜかって、聞かれるんですけどね。自分でもわからないんで、その質問にはいつも首をかしげることしかできないんです。ただ、私は、嫌なことがあっても落ち込むことはないんですね。むしろ、「なにくそ」と思って這い上がろうとするんですよ。とにかく、負けるのが大嫌いですからね。何かの立場を与えられれば、そこで負けるのは恥だと思いますね。恥をかくのは、嫌ですからね。
 
 それから、いつも何か、新しいことに挑もうという気持ちは持ってましたね。そうでなければ、48歳にもなって牛乳屋なんかはじめませんよ。それに対し、今の若い人は野心がないですね。独立しようという気などないんじゃないですかね。私は、今でも健康であれば、何かやりたいなって思いますよ。小遣い稼ぎでもしようかと思っていますね。
 
 何をやってみたいかですか。そうですねえ。水力を利用した電気関係の仕事なんかがやれればと思いますね。実家のすぐ前が川で、私の家では水車も回していたんですよ。やっぱり、私は田舎が好きですから、農業もいいですね。広い場所でも耕して、物を作ることもやってみたいですね。人間は、夢を持たなくちゃダメですよ。若い人にも夢を持って、ぶつかっていってほしいですね。
 
   ❒苦しい時に助けてくれる人が不思議と現れる
 
 私は、これまでつらかったこと、思うようにいかなかったことがあっても、その度に負けちゃいけないと思う気持ちでぶつかれたのは良かったんですが、それだけじゃここまでこれませんでしたよ。
 
不思議なのは、1人で鉄工所をやって不渡りをもらって生活に困っていた時、牛乳のセールスの仕事を紹介してくれた人が現れたでしょ、青戸の牛乳屋を辞めた直後に、やめたがっていた牛乳販売店が出てきて自分の店を持てたでしょ、そうやって助けられたことが、いくつもあったんですね
 
本当に、不思議と窮地の時に助けてくれる人がどこからか現れたり、周りの環境が自分にとって1番良いように変化したから、ここまで来れたんですね。これは、今考えても、不思議だなと思っていますね。お世話になった方々には、感謝の気持ちしかありませんね。
 
   ❒あと10年位は頑張って生きる
 
 いやあ、長い間聞いてもらいましたが、どれも何十年も前のことですから。ずいぶん忘れてしまいましたね。役に立ったかわかりませんが、この程度の話でいいですかね。
 
 私の話は、こんなもので終わりになっちゃうんですけど、聞き書きが終わっても時々来てくださいよ。今日だって、私の方が良い話を聞かせてもらったし、これからですよ。今がつきあいの始めですからね。
 
これからも、話をいろいろ聞きたいですから。私は、まだ10年位は生きようと思っていますからね。だから、寄ってくださいよ。私は何もすることがなくて、いつでも空いているんですから。
 
 
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      最後に(聞き手 トゲル/Hiro Iwasawa)
   
 長文となった鈴木さんの聞き書きを、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
 この記事を書くために、私は鈴木さんのお宅を9回訪ねて話を聞かせてもらいました。捕虜となった不自由で辛いことも淡々と話してくれる鈴木さんでしたが、行くたびに前には言われなかったことを話されました。それは本当に悲惨な内容が多く、語りたくない記憶だったと思うのですが、徐々に私と心がうち解け合うようになったので、話してくれたのだと思います。それを書けたことで、シベリアの体験部分はよりリアルな内容になったと思っています。
 鈴木さんが厳寒の地シベリアでの過酷な捕虜生活を乗り越えられることができたのは、私は次のことによると思います。1つ目は、1級の捕虜の80パーセントのノルマでいい2の捕虜なのに、1級の捕虜のノルマをやるという、どんな立場でも人に負けたくないという生まじめで、負けず嫌いな性格です。2つ目は、寒い中で粗末でわずかな食事しか食べていないのに、体重が変わらず凍傷や風邪を引いたことがないという丈夫な体力です。3つ目は、捕虜生活ではどんな辛い目にあっても仕方ないという覚悟ができていたことです。4つ目は、刑務所でチェスを覚えてロシアの囚人と楽しんだこと、収容所から出て草原の小屋で生活したときに、木を細かく裂いて編んで魚道を作り、魚取りを楽しんだことなどに見られるように、厳しい環境の中でも楽しく過ごす知恵と器用さを持つ楽観主義であったこと、この4つです。
 この並外れた強さを持って、厳しいシベリアでの捕虜生活に耐え、帰国後に始めた牛乳店を東京トップの店に押し上げた鈴木さんの人生に賞賛の拍手を送りたいと思います。私も、どんな困難にも負けず、勝利を勝ち取った鈴木さんを見習い、どんな時にも希望を持ち続けて力強く生きていきたいと思いました。
 鈴木さんは、この記事を書いた5年後の2020年10月に亡くなられましたが、2015年に聞いた内容を聞き書きしたものです。
 
 
 

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