短編小説「甘くて、苦くて、」

「ありがとうございました」

　お客様を見送って、軽く店頭を整える。

「じゃあ、あがろうか」

　店長に声をかけられ、もうそんな時間かとちらりと時計に目を向ける。

「お疲れ様でした」

　バックヤードに入り、仕事着を脱ぐ。今日も一日なんとなく頑張ったなと思い、椅子に腰掛ける。ここでギリギリまで電車を待つか、駅のホームに行くか数秒悩んだ後、結局電車を逃してしまうのが嫌で、駅のホームで待つことにする。
　ホームのベンチに腰掛けながら、いつものように今日のことを反芻していたが、同時に嫌な記憶も蘇り、なんともいえない表情になってしまう。例えていうと、食べれるけれど苦手な食べ物を、不意に口にしてしまったような顔だ。

◇

「そういえば、彼氏いないの？」

　雑談の途中、不意に投げかけられた問いに、瞬き一回分、作業の手が止まってしまった。

「いないですね」

　なんでもないふうに答える、続く質問も予想できてしまいずしりと心が重くなる。

　好きなタイプはとか、彼氏いらないのとか、他にも色々、うんざりするような質問ばかり投げかけられるのだ、きっと。

「彼氏なんていらないって感じ？」

　あぁ、ほら。鬱陶しい。

「そうですね、興味ないです」

　こういう時、大抵の人が困惑する言葉を僕は知っている。けれど、何も言わない。それがあまり親しくない人たちとの人間関係を円滑に進めるために必要なこと。

「でも、女の子だし、将来結婚とか出産とか考えたりするでしょ」

　けれど続いた言葉に、本音が溢れた。

「自分のこと女だと思ってないんで」

　自分の言った言葉を理解するまで数秒。しんとした空気に焦ったが、取り消すのも変な話だ、どうにでもなれと開き直った。

「い、いやでもさ、ほら、女の子でしょどこからどう見ても」

「見た目がどうとか知りませんけど、僕は僕で、どっちでもないので。もうやめてくれませんか、女の子だからとかなんとかいうの、苦痛です」

　体の芯がじんと痛くなって、重くて動かなくなりそうで、震えそうになる体と声。落ち着くように言い聞かせながら、ゆっくりと言い切る。相手に目線を向けることはできなくて、手元に視線を落とす。
　戸惑っている空気が伝わってきて、やっぱり言わなければよかったかと後悔が押し寄せる。でも、いつまでも苦痛に晒されて生きるのは苦しい。
　ちょうど休憩の時間になり、急く体をなるべくいつも通りに操って、仕事場を抜けた。
　休憩が明けると、店長も自分も、何事もなかったかのように振る舞って、一日が終わった。

◇

「ただいま〜」

　誰もいない部屋に向かって独り言のようにつぶやく。
　引っ越しをしてからろくに片付いていない部屋。段ボールがまだ玄関先に放置されていて、それでもキッチン周りやベッドなんかは使えるようにしてあるので、なんとかなってしまっている。どうせ寝に帰るぐらいだし、と休みの日も片付ける気になれず、この有様だ。

『カムするつもりなかったのに、店長との彼氏いるのいないの、いらないの？　女の子だしとか言われて、ついカムしてしまった〜
いやでも女の子でしょとか、うるせ〜！女じゃねぇ〜！
地獄みたいな空気になったんだけど、明日仕事行きたくねー』

　愚痴のようにＳＮＳに今日の出来事を投稿する。1日で消えるそれは、愚痴を吐き出すのにちょうどいい。
　誰か一人にこの愚痴をこぼすには、なんとなく相手に迷惑がかかってしまうような、相手に気を使わせてしまうような気がしてしまう。
　だから、王様の耳はロバの耳と穴に向かって言った人のように、その人とは違い誰かに伝わるのはわかった上で、穴に向かって叫ぶのだ。
　一通りＳＮＳのタイムラインをチェックして、夕飯の準備に取り掛かる。今日はもう何もかもめんどくさいので、冷凍餃子を焼くだけだ。ちなみにご飯すらレンチンだ。
　帰り際に買ってきたレモンサワーを飲みながら餃子を頬張る。明日も仕事だが、飲んで食べないとやってられない。残念ながら缶一本で酔ってしまうような体質ではないが。
　極め付けはデザートだ。夜遅いとか気にしない。今日は食べる。
　冷蔵庫に入れていたガトーショコラを取り出す。いちごと生クリームののったそれは、早く食べてくれと言っているようにキラキラとしている。
　ほのかなチョコレートの苦味と生クリームの甘みが口の中を幸せにする。

「うまうま〜」

　じっくり堪能しながら食べ進めていると、ピロンとスマホがなる。通知を確認するとメッセージが届いていた。先ほどの愚痴に対するものらしい。
　アイコンと名前を確認すると、普段あまりやり取りをしない、高校時代の友人だった。同じクラスになった時、共通の友人を通じて仲良くなった。趣味が同じだったというのも大きい。大学時代も何度か遊んだ数少ない友人でもある。

『いろんな考えの人がいるけど、私は自分を曲げずに、自分らしく生きてて素敵だと思う！　
お仕事もお互い大変だけど、頑張ろ〜』

　短いメッセージだった。でも、荒んだ心にじんわりと染み込んで、じわりと目に涙が浮かぶ。慌てて近くに置いていたタオルを手に取り目に押し当てる。
　うーとかあーとか、言葉にならないようなうめき声を小さく上げて上を向く。
　久しぶりに真っ直ぐに自分を拒否しないでいてもらえた気がして、傷つかないように元気が出るようにと思ってくれる心が嬉しくてどうしようもなかった。
　普段の店長との会話、お客さまからの『お姉さん』という呼びかけ。日々のいろんな言葉が、心を抉って。自分の容姿や声なら仕方がないと、何度も何度も言い聞かせた。
　でも、そうではない。僕は僕であると主張してもいいのだ。
　拒否する人がいるのは仕方がない。けれど、こうして気持ちを寄せてくれる人が確かにいる。

「明日も頑張るか〜」

　最後の一切れを口に放り込み、この気持ちを忘れないように、甘さと苦さを噛み締めた。