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続けることは、罪悪感でしかありませんでした

ソフトボールの日々

私が子どもの頃は、地区対抗のソフトボールが盛んだった。
男の子は野球。

小学校3年生のとき、三つ上の姉の練習について私もソフトボールに参加するようになった。練習したいとか、うまくなりたいとか、そういうのじゃなくて、子どもはみんな参加するのが当たり前。
地域の行事で、親の応援にもチカラが入っていた。

中学、高校と当然のように、ソフトボール部。高校までは、自転車で最寄り駅まで30分、10分電車に揺られ、駅から徒歩20分。電車通学は私だけ。
帰宅時間は午後9時を回ることもあり、父親は心配して、家の前で私の帰りを待っていた。

157㎝、42㎏。ソフトボールと言えば、大柄な選手が多い中、もやしのような私。「バッティング云々の前に、カラダだ!」そう言われ続け、人一倍食べ、1本早い電車で登校し、始業までグランドを走る自主練の毎日。
それでも、もやしは、もやしのままだった。

3年の進路決定時。就職を希望していたにもかかわらず、一時的な成績アップで大学進学へ。急遽、進路室で見つけ出した大学は、毎年インカレに出場している女子大だった。

大学の先輩たちは、レベルが違っていた。地元強豪校出身者、国体出場者、強者揃い。今まで見たことのない打球の速さ。先輩の打球は捕ろうなんて考えずに、逃げるように言われていた。逃げることさえできず、手や脚に青あざを作ることが多くあった。

ソフトボールに明け暮れる日々。先輩たちとのソフトボール生活は充実していた。
強豪高校、実業団チーム、ママさんチームと、幅広い年代層との練習試合は、個人の、チームの柔軟性を高めてくれた。

インカレ出場は1年と4年時。それまで毎年出場するのが当たり前だった大学の歴史に、穴をあけてしまったが、インカレ出場できなかった代わりに関東大会準優勝や関東北信越大会優勝を果たすことができた。

ちょっと待って

4年生になると、ソフトボール生活にもいろいろな障害が出てきた。
ゼミの先生は、勉強に集中してほしいからソフトボールを辞めてほしいと言った。クラスの子は、就職のためにパソコン教室に通い始めた。
チームメイトはすべて地元のため、就職活動は部活が始まる時間までに、十分済ませられた。
私は…。
地方出身、Uターン就職が親との約束。地元求人を探す。
インターネットもない時代。入社試験は一日がかり。
結局、就職課に求人がきていた中で、一番実家に近い私立学校に出願し、就職。偶然にも、ソフトボール部はインターハイ優勝常連校だった。

ところが。
私は履歴書のどこにも「ソフトボール」と書かなかった。14年間、ソフトボールしかしてこなかったのに。

「いつまでも、ソフトボールなんかしていていいのか」
私の中には、いつからか、そんな気持ちがあった。
社会人とは、専門知識を習得し、深め、それを生かして組織の、社会の役に立つ人。私の中にあったイメージが、私からソフトボールを排除した。
「これ以上、ソフトボールのことを考えてはいけない」

高校時代、私の帰宅が遅いために両親を毎日心配させた。
ソフトボールのためだけに大学へ進学し、授業料だけでなく、一人暮らしの生活費や遠征費の負担をかけてしまった。
いざ就職になったとき、それまで犠牲にしたものが多かったにもかかわらず、自宅から遠く果たして通いとおせるのか不安のある就職先。到底、両親を喜ばせるようなものではなかった。

今まで周りにも自分にも負荷をかけてきたことは、一体、何の意味があるのか。
それは、大学に入学して間もなくから感じていたこと。
ソフトボールを続けることの罪悪感。
いつの間にか、ソフトボールを楽しいと思えなくなっていた。


現在、息子は高校3年生。7月初めまで部活に集中していて行きたい大学が決まっていない。部活は男子ソフトボール部。
私は、男子ソフトボール部の強い大学への進学を勧めた。

大学でやりたかったことがソフトボールだった、ただそれだけのことでいい。それで十分。とことんソフトボールを極める。
息子の人生には、これからもソフトボールが伴走してくれる。

#部活の思い出

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