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雲を見る時間


明らかに失敗だったという買い物がある
グラビティというバランスチェアだ
北欧のもので40万円した
座った姿勢のまま45度上に傾くようになっていて、その姿勢になると足が心臓より高い位置に来るので、血液が心臓に戻りやすくなって疲れが取れる
その姿勢でテレビを見たり、お腹にワイヤレスキーボードを載せてパソコンの作業をやれば疲れ知らずな毎日が送れるのではないかと思い購入したのだが、それに座ってテレビを見ていると、かえって腰が痛くなった
45度傾けた状態で首を立てると、腰に負担がかかるのだ

そんなわけで、リビングからは早々に姿を消し、邪魔にならないように寝室の隅に置くようになったのだがそれでも邪魔に感じてしまい、もしかしたら外に出せるかもしれないと、やってみたらギリギリでベランダに出すことができた
以来、雨が降らない限りベランダがその椅子の定位置になった

俺のマンションのベランダからは海が見えるので、最初はその椅子に座って海を見ていたのだが、しばらくすると首と腰が痛くなった
その椅子の正しい使い方は、身体を完全に椅子に預け、その間、何もしないことであり、それはベランダに出しても変わらない
首を立てて前を見ようとすれば、腰に負担がかかる

そんなわけでベランダに置いてもほとんど座ることがなかったのだが、ある日、海を見るのをやめて45度上に傾いた姿勢で空を見た
すると、これが思いのほか心地いい
地上の造形物はベランダの天井以外何も見えなくなり、ただ空だけがそこにある
気が付くと長い時間が経っていて、再び椅子の角度を通常に戻し地上の造形物が視界に入った時、それを美しいと感じなかった
つまり、それまで見ていた空があまりにも美しかったのだ

その後、一日の中で気持ちの区切りをつけたいとき、その椅子に座るようになった
視界から地上の造形物をすべて消し、雲があるときは雲の形を漠然と追う
マインドフルネスとか瞑想とかそんなことが流行っているみたいだが、ただ雲を見る、という時間は同じような効果があるのではないかと思う

そんな大切な雲を見る時間だが、きのう、新たな局面が開いた
満月だったのでしばらく月を見ていたのだが、月はすぐに雲に隠れ、雲が作る白黒の濃淡だけが空を覆った
それが水墨画のようだったのだ
今年の夏は箱根の岡田美術館に丸一日滞在し素晴らしい水墨画の数々を堪能したが、夜の雲が作り出す濃淡は当然ながらそれを超えていた
空一面がキャンバスで、時間とともに形と濃淡が変化する
人間が勝てるわけがない

どこにも行かなくていいのだな
最初に思ったのはそのことである
地上のどこかにある素敵な風景を求めて遠くへ行かなくても、ただ空を見上げるだけでこんなにも素晴らしい

そんなわけで、またしてもポルシェを買う理由が遠のいた
今日もポルシェは要らないな


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