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ノートブログを初めて453日目になりました。
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ヒマラヤで400年に一度しか咲かないお花が咲いたそうです😃🌈💓🌸

日本にもお花いっぱい咲かせましょう💓💓💓💓💓💓
(此の記事は誤報です。お詫び致します。花自体は絶滅危惧種で、八重山諸島辺りに見られると言う事です。)

何だか凄いことがおこりました。
友人からの情報です。
(誠に残念ですが、此の花はゴバンノシアンという花だそうです。チベットとも、400年に一度というキャッチフレーズとも、関係無いそうです。)



昨日は、芝居の練習場所が移動しました。

東小金井にある、緑分館という浴恩館公園に隣接する、超レトロな公民館です。小金井の市民でも、知らない人が多いのではないでしょうか?
余りにも緑に恵まれた建物でしたから、稽古しながらも、一人庭を眺めて居ました。心が洗われるようです。

浴恩館公園には下の様な歴史がありました。
以下コピーです。
 浴恩館は昭和3年、京都御所で行われた昭和天皇即位大嘗祭の神職の更衣所を、(財)日本青年館が譲り受けて移築したものです。昭和6年から全国の青年団の指導者層が集まり、寝食を共にして人間形成をする講習所として機能しました。
 日本青年館の設立理事であり、「青年の父」と謳われた田澤義鋪(たざわよしはる)は、昭和8年、故郷佐賀の後輩で無二の畏友、下村湖人(しもむらこじん)を、浴恩館に開かれた青年団講習所の所長として呼び寄せ、実践教育に当たらせました。
 しかし、全国から有為の青年が集まる浴恩館は、軍事教練に格好の場として軍部に目を付けられました。『次郎物語』も雑誌連載中止にまで追い込まれた湖人は、昭和12年に講習所所長を辞任、以後、浴恩館は戦時体制に組み込まれます。
 戦後、再び青年教育の場、或いはユースホステルとして復興を果たしますが、時代は高度成長期に突入し、農村社会を支えていた青年団が自然消滅していきます。維持困難に陥った日本青年館は、教育の場として運用することを条件に、昭和48年に小金井市に売却、小金井市は青少年センターとして開館します。さらに平成5年には、室内を抜本的に改装し、小金井市の郷土資料を展示収蔵する文化財センターとして新たに開館しました。

チャンスが有れば、日本の歴史に触れてみたいとおもいました。

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