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どうか Kappa と発音して下さい

 芥川龍之介の『河童』を読み直しました。改めて読み直した感想は「色褪せないどころか色濃くなっていく怪作」です。私がそう感じた理由は、作品そのものが風刺という物を作品の魅力に昇化しているからです。私の中では、風刺とはあくまで作品を作成する背景であり、「風刺として面白い」とはなっても「風刺だから面白い」とはならないのです。そして作品の背景にあるものを風刺であると感じさせることは、読者を一定以上の見識がある者とそうでない者にわける、ことになります。さらに風刺の対象というのは作成時点での社会やら人やらといった時代を感じさせるものが大半であり、時代や作者の置かれた心境の考証の資料ならともかく、時が経てば色褪せる、若い世代には響かないといったバッドステータスに陥りがちになります。しかし芥川龍之介の『河童』は前述したように風刺という物を作品の魅力に昇華しています。河童の世界は当時の日本社会とは逆さであり風刺を孕んでいますが、肉付けをきちんと行いディストピア的な社会を構築させています、ディストピアというのは見識がなくても現実との齟齬という違和を感じさせます。肉付けというのは第二十三号は河童の国で暮らし巡った時の心証と描写によりありえない国の実在性を高めている、第二十三号は精神病院で本文を河童の国での思い出として話していますが、これが『狂った人間が話すトンチンカンな話』か「人間を狂わせた実際にあった話」かどうか分かりません、正常な人間の夢の話は夢ですが、正常でない人間の現実の話は夢ではないのです(この感想は筆者がクトゥルフ神話を好んでいて、また趣味がTRPGなため、こういった日常の裏の狂気というものを実在すると肯定しているからです)。1つの世界として確立された河童の国は残酷な制度とそこで生きることで分かる魅力のふたつを持っています。ディストピアは筆者達の世界がまるっきりその形になるまでディストピアであり続けます。風刺は褪せますがディストピアは新鮮な狂気を基礎とした実在性を放ち続けます。ディストピアな河童の国とそこに暮らす河童、そこに郷愁を感じる第二十三号の話、色褪せないどころか色濃くなっていく怪作、それが芥川龍之介の『河童』です。

#読書の秋2021

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