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エターナルライフ第17話 1977年~1979年


そこは国際赤十字が運営している野戦病院だった。康輔はそこで彼の人生を変えた恩人に出会った。サンドラというアフリカ系アメリカ人のナースだった。

康輔はその病院で治療を受けて傷は癒え、骨折した足も元通りになった。
しかし満足に歩くことができなかった。歩けるようになるには辛いリハビリに励まなければいけないのだが、その気力が出なかった。
彼は自責の念に打ちのめされて、生きていく意欲を失っていた。そんな彼を見かねてサンドラはいつも声をかけていた。
しかし、彼はアメリカ人である彼女に心を開くことができなかった。
ある日、康輔がアメリカという国、そしてアメリカ人に対するネガティブな思いを口にすると、サンドラは自分の体験を語りだした。

彼女は黒人差別の激しい南部の出身で、父親は彼女が八歳の時に白人極右組織によるリンチで殺された。そのとき、末の弟はまだ母親のお腹の中にいた。
母親は懸命に働いて彼女たち五人の兄弟を育ててくれたが、やがて病に倒れてしまう。アメリカでは貧乏人は病気になっても医者にかかることすらできない。そのときに手を差し伸べてくれたのが近所に住む白人の女性医師だった。その医師の尽力で母親は病気を乗り越えることができた。
彼女の中で憎悪の対象でしかなかった白人という存在が大きく変化していく。医師は彼女の良き相談相手ともなり、彼女が医療の道を進むきっかけを作ってくれた。

「その医師は母親の病気を治してくれただけではなかった。私自身の心を自由にしてくれた。私は理解した。白人というだけで忌み嫌う態度は、黒人を差別する連中と同じレベルでしかないのだと。
人種や民族、宗教などの属性で個人にレッテルを貼ることは間違っているということを。ましてや人間が勝手に作り上げた国家やイデオロギーという概念が、その人の人間性の前に君臨するようなことは許されない。
私はアメリカ人でキリスト教徒である以前にひとりの人間。あなたは日本人で共産ゲリラである前にひとりの人間。その共通の土壌に立たない限り、友情を育むことはできない。
人は誰でも自らのアイデンティティーを何かに求めてしまう。そして、それを利用して敵対する勢力のネガティブな像を造り出し、憎しみを煽って自らの勢力の拡大を図ることは権力者達の常套手段だ。あなたもそのようなステレオタイプの枷から解放されなければならない」

康輔は有り余る時間の中で自分自身を顧みた。彼は節度を貫いて生きてきたつもりでいた。しかしそれは、単にイデオロギーの桎梏から逃れられていないだけかも知れないことに思い至った。

ある日、彼はサンドラに事件の全てを話した。
テントは薄暮に包まれていた。外のベンチに並んで座ったサンドラは静かに言った。
「辛かったわね。でもそれはあなたのせいでは無いし、他の誰かのせいでも無い。戦争というものはそういうものよ」
しかし、激しい悔恨に苛まれていた彼は、決してそのように割り切ることはできないと言った。
彼女の褐色の手が、康輔の手の上に添えられた。
「そんなに自分を責めてはいけない。あなたは判断を誤ったと思っているの? 部下を射殺し、迫撃砲が使われなければ他の展開があった。そう思っているの?」
「よく解らない」
「あなたは部下を背後から撃った。そして迫撃砲は使われなかった。その結果はどうなっていたか。一番可能性の高いのは、あなたの部隊の全滅。そしてあなたもここにはいない。万一、逆に政府軍に勝ったとしたら、あなたたちは生きて村のアジトに入っていく。でも、そこにはもっと辛い現実があなたを待っていたかもしれない。さらに部下を背後から撃ち殺したという悔恨にも責められることになる」
「もっと辛い現実とはどんなことなんだ?」
「本当は、あなたは解っているはずだわ。ゲリラをかくまう先住民の部落に対して政府軍が何をするかを。でもね、私は彼らに罪があるとは思わない。私は戦場で人間の蛮性をいやというほど見てきた。本来、子煩悩で優しかったはずの父親が、戦場では非道な残虐行為を行う。人間性を破壊されるという意味で、前線の兵士たちは皆戦争の被害者だ。だから私は、どんな非道な行為も、その責を、それを行った個々人に負わせるべきでは無いと考える。罪は人間の最も醜い部分を引き出してしまう戦争そのもの、そして戦争を始める権力者にある。あなたの悲劇も、この内戦さえ無ければ起こらなかった」

既に夜は帳を下ろし、満天の星がきらめいていた。
「どんなに悔やんでも過去を変えることはできない。とにかくあなたは生きてここにいる。その意味を考えなさい。あなたに必要なことは前を向くこと。どのように生きたら、あなたの愛した人たちが喜んでくれるか。それを考えることよ」

康輔は何日もサンドラの言葉を反芻して思索した。彼が命がけで取り組んできたことは何だったのか。彼自身が今ここで生きている意味とは一体何なのか。

ある日、彼はサンドラに問うた。自らの意思で戦闘を続けてきたこと。革命の名のもとにたくさんの人を殺してきたこと。それは間違いだったのか?
「革命って何? あなたは何のために戦ってきたの?」
「皆が幸福に暮らせる平和な世界を創るためだ」
「政府軍の兵士に同じ質問をすると、同じ答えが返ってくるわ。平和のために戦っているんだって。こんなバカなことってある? お互いが平和な世界を目指して殺し合っているのよ。近視眼的なものの見方では本質は見えてこない。あなたたちに銃を持たせているのは何者なのか見定めないといけない。ここは東西の覇権争いの最前線なのよ」
呆然と佇む彼にサンドラは言葉を続けた。
「資本主義だって共産主義だって人々の幸福のために考え出されたものでしょう。でもそれがいつからか権力者たちの覇権争いにすり替わってしまった。そんなつまらないヘゲモニー闘争が何人の尊い命を奪ったと思う? 何人の親のいない子供を生んだと思う? あなたは民衆を軍事政権から解放するために戦ってきたと言うけど、結果的には混乱を引き起こしただけ。手段を選ぶ必要があったのよ。暴力は憎悪を生むだけ。憎悪の連鎖はどこかで断ち切らなければ永遠に平和は訪れない。断ち切る勇気を持つことだ。想像力を働かせなさい。あなたに大切な人がいたように、あなたが殺した政府軍の兵士にも、帰りを待っている妻や子がいたのだということを。心配で眠れない母親がいたのだということを。政府軍としてひとくくりにしてしまうと、ひとりひとりの顔は見えてこない。そこから殺戮への痛みは麻痺する」

康輔は自分の立っている足元がぐらつく思いがした。自らが拠って立っていた思想や哲学が音を立てて崩れていった瞬間だった。

康輔が眠れなくなったのはその頃からだった。眠ろうとすると、恐怖に顔をゆがませる敵兵を躊躇無く射殺した光景や、家族の団らんの中、子供達の目の前で要人を狙撃した場面がフラッシュバックしてくるようになったのだ。彼は心的外傷後ストレス障害と診断され、その治療が始まった。薬を飲めば眠れるものの、症状は一進一退を繰り返した。強い抑うつ状態に苦しんでいたある日、サンドラが声をかけてきた。

「少しずつでいいから、私の仕事を手伝ってくれない? 私の力になって」
サンドラに託された簡単な作業に取り組む時だけ、彼は抑うつ状態から解放された。そして次第により複雑な仕事を任されるようになっていった。

それは、負傷した政府軍兵士をサンドラと一緒に病院に運び込んだ後のことだった。スタッフの詰め所でお茶を飲みながらサンドラが言った。
「かつての敵を救出するのってどんな気分?」
「勝手な言い分だけど、もう敵も味方もない。ひとりの人間だ」
「そうね。あなたがそのように思えることが私には嬉しい。あなたにできることはね。早く元気になってここで働くこと。あなたが殺した人の数、それ以上の人をこの病院で救っていくこと。政府軍の兵士も含めて…。
“この人生における疑う余地のないただひとつの幸福は、他人ひとのために生きることである” トルストイの言葉よ。他者のために生きることによって、あなた自身が救われる」
それから康輔は懸命にその病院で働いた。その仕事に没入することで彼は少しずつ再生していった。


あるとき、ゲリラ陣地への政府軍の砲撃が、その近くにある村に着弾して多数の死傷者が出ているとの情報が入った。住民の車両が瀕死の子供を運んできた。まだ多くの負傷者がいるという。病院のスタッフは色めき立った。まず砲撃を止めなければ助けに行くことはできない。

康輔は志願した。政府軍の陣地に出向いて砲撃を止めさせる。
「私も行くわ」
サンドラが叫んだ。
「だめだ。危険すぎる。俺ひとりでいい」
「こんなことは私は何度も経験してるのよ。政府軍の司令官も、女が交渉にあたった方が警戒しない。行くわよ!」
サンドラは走りながら、あなたが運転してと言って車のキーを投げた。彼らは四駆のワゴンで悪路を駆けた。政府軍陣地の前で検問を受けたが、赤十字のIDカードを見せるとあっさり通してくれた。
「あなたは車で待機していて。もし、政府軍にあなたの顔が割れていたら、交渉は台無しだから」
車の周りは三人の兵が囲んでいる。時間にすれば二〇分程のものだったが、康輔には二時間にも感じられた。

サンドラが走ってくる。車に乗り込むと彼女は言った。
「交渉成立。砲撃を中止してくれるけど、一時間だけよ。急いで!」
彼女は無線で病院に連絡し、負傷者を救助に向かうよう指示する。彼らが現場に着くと、ちょうど病院の車両が出発するところだった。そのスタッフが叫んだ。
「助かりそうな負傷者だけ選んだけど、積みきれない。後は頼む」
彼らは選別しなければならなかった。助けられそうもない重傷者は見殺しにするしか無かった。車は負傷者でいっぱいになった。サンドラはぐったりした子供を抱きかかえて走ってくる。康輔は叫んだ。
「サンドラ、乗れ!」
「代わりにこの子を運んで。砲撃が開始されるまでまだ間があるわ。戻ってきて!」
「無理だ、サンドラ。乗るんだ!」
「まだ助けられる人がいる。いいから早く行って!」
康輔はタイヤを軋ませて車を出した。
病院に向かう途中で、先に出発した車両が戻ってきた。康輔は、そのドライバーと交代して村に向かった。

村の入り口でサンドラが立っている。乗り込んだ彼女は言った。
「まっすぐ行って。この先の黄色い屋根の家に怪我をした妊婦が動けないでいる」
しばらく走ると黄色い屋根の家が見えてきた。
鋭い風切り音。まずい。康輔は両足で思いっきりブレーキを踏んだ。目指していた黄色い屋根の家の周辺に砲弾が落ちた。攻撃は再開された。戻るぞ。ドリフトをかけて車を回転させる。フルスロットルで逃げた。
「何てこと!」
サンドラは両手で顔を覆う。
全速で進む車両の先に砲弾が落ちて道が崩れた。ブレーキを踏んだが間に合わなかった。彼らは崖から落ちていった。

どのくらい時間が経ったのだろう。康輔が気がつくと、崖から突き出たわずかな岩場に車は横倒しになっていた。身体の節々が痛んだが、致命的なダメージは受けていないようだった。気を失っているサンドラを揺り起こす。
「サンドラ、大丈夫か?」
「ああ、わからない」

康輔は自分の上にあるドアの窓を開けて外に出た。いつの間にか砲撃は止み、白々と夜が明けてきていた。サンドラに出てくるように声を掛けて手を差し伸べると、その手を握って起きようとしたが無理のようだった。
「足をやられたみたい。動けない」
無線も壊れて使えなかった。
康輔は車に積んであったロープを襷掛けにして崖をよじ登っていった。崖の上の木にロープを縛り付けて車に戻る。動けないサンドラを引っ張り出して背負った。余ったロープで彼女を背中に縛り付け、崖を登っていく。
崖の上までわずかのところで足に掛けた岩が崩れて五メートルほどずり落ちた。ロープを握る手の皮が破れたが、ここで落ちるわけにはいかない。康輔はロープを手首に巻き付けながらゆっくり登っていった。

彼らは崖の上で倒れ込んでいた。
「康輔、凄いわ。最強のサバイバーね。今日からあなたは私のヒーローよ」
「それは光栄だ。ところで足はどんな具合だ?」
彼女の右のすねは腫れ上がっていた。
「骨折したかも知れない。歩けない」
「よし、最強のサバイバーが背負ってやる。行くぞ」
康輔は彼女を背負って歩き出した。病院まで十キロほどだ。歩けない距離では無い。

「大丈夫、重くない?」
「いや、重くは無い」
「ここに来て、七キロ痩せたわ。仕事もハードだし、カロリーの高い食べ物も無いから」
「そんなに痩せたのに胸は立派なんだね」
「そうよ」
サンドラはそう言いながら、康輔の背中に胸を押しつけた。
「たまにね。無性にハンバーガーが食べたくなるの。シャキシャキのレタスとカリカリのベーコンが挟んであるヤツ。その周りにはお皿からこぼれるほどのフレンチフライ」
「いいね。冷たいビールと一緒にね。ところでサンドラ、何で君はこんな仕事を選んだんだ? こんなに危険で、ハードな仕事を」
「そうね。子供の頃にナイチンゲールの伝記を読んだの。その、母親を救ってくれた医師が貸してくれてね。憧れたの。一生懸命勉強してナースの資格を取った。それで地元の小さな病院で働き始めたの。年寄りの社交場みたいな病院。ルイジアナの田舎町のね。何の変化も無い毎日が退屈で仕方なかった。私は生まれてからずっとその町を一歩も出たことが無かったの。何も無い所よ。美味しいハンバーガー屋以外はね。広い世界に出たくて赤十字に入ったの。そんな単純な理由。
でも、そんな動機だから最初に紛争地帯に着任した時には、その過酷さにすぐに音を上げそうになったわ。そこで踏みとどまることができたのは、先に赴任していた男性医師との出会いだった。彼は献身ということがどういうことか、身をもって私に教えてくれた。私たちは次第に愛し合うようになっていった。でも、死んじゃったのよ。負傷者を収容するために地雷原を通らなきゃいけなくて、みんな反対したのに、俺は何度もそこを通ってるんだ。あたりゃしないさって、出かけていって、そのまま帰らなかった。私は何も手につかなくなってしまって、休暇を取って帰国したの。ぼんやり毎日を過ごすうちに気がついた。彼が私に何を望んでいるか。彼に愛された私はどう行動すべきか。そして復帰したの。でも、少し疲れたな。特に昨日のようなことがあるとね。無力感でいっぱいになる」
「君はベストを尽くしたんだ。最初の便で帰ることだってできた。というかそれが当然だ」
「私は後悔したくないの。アフリカにいたときにね。負傷者を車で運んでいて、一刻を争う状況だった。突然車の前に、ぐったりした子供を抱いた母親が現れてこの子を助けてって差し出されたの。私は必ず迎えに来るから待っててって言ってその場を後にした。病院で負傷者の処置が終わって駆けつけると、母親も子供も死んでいた。私はそれ以来、決して後悔しない生き方をしようと決めたの」
「自分の身を守ることも大事だ。君が死んだら助かる人も助からなくなる。無茶をしてはいけない」
「ありがとね。無茶な私を迎えに来てくれて。来た車が違っていたからあなたじゃ無いと思ったのに。わざわざ交代してくれたのね。どうして?」
「何となく、こんなことになるような気がしたから。君を守るのは俺じゃなきゃ無理だと思ったから」
サンドラは黙って彼の頭に頬を寄せた。遠くに土煙が上がる。病院の車が彼らを探しに来てくれたようだ。

負傷したサンドラはアメリカに帰国することになった。そして、康輔も日本に帰ることにした。


エターナルライフ第18話 婚約 康輔

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