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エターナルライフ第9話 盛夏 美里

何故彼を信じたのか。そう聞かれて、好きだからって言えなかった。もしかしたら、彼はそういう私を望んでいないのかも知れない。言ってしまえば、やっと掴んだ幸せが、指の間からポロポロと零れてしまいそうな気がした。

でも、なぜ私はあんな話をしたのだろう。私は今まで自分の過去を他人に明かしたことなどなかった。
彼の中に、それを引き出してくれた何かがあったのだ。そして、彼はそれを受け止めてくれた。私はもうひとりじゃない。

康輔さん、あなたは私が自分自身をさらけ出せば、私を愛してくれる人が現れると言ってくれた。その人って誰なの? あなたでは無いの? あなたは私をどのように思っているの?

彼が街に出かけた午後、私はひとりで森の奥に行ってみることにした。いつもふたりで歩いている道は、ひとりで歩くと随分と遠く感じられた。
私はいつもの倒木に腰掛けてスケッチブックに色を落としていった。真っ青な空、白く輝く雲、木々の緑。それらを映す水面の鏡。惜しみなく降り注ぐ夏の光と森を渡る風。
この豊穣な世界を絵として表現できる力は今の私には無い。でもいつか描けるようになりたい。印象派のような、躍る光のふるまいを。

炎天下の中を喘ぎながら歩いてやっと家に到着し、シャワーを浴びて汗を流した。風の通る家の中は外より涼しく感じられた。
彼が帰るまでまだしばらく時間がある。ひとりだけの開放感も手伝って、ショーツの上に少し丈の長いTシャツ一枚という格好でくつろいだ。姿見に映る我が身は…。うん、悪くない。そんなだらしない格好で、ソファーに寝転がって本を読んでいると、いつの間にか寝落ちしてしまった。
ふと気がつくと彼が帰っている。まずい。こんな格好を見られたら。でも…。
彼が近づいてくる。どうしよう。私は寝たふりをしていた。彼が私の前に立っている気配がする。ドキドキする。でも、やがて彼は離れていく。そして持ってきたタオルケットをそっと私の身体に掛けてくれる。私はソファーの背もたれの方に寝返りを打った。だって、拍子抜けして涙が出てきたから。彼は私を子供のようにしか見ていないんだ。

「どうかしたの?」
その晩の夕食後、ぽつりと彼に聞かれた。
「いえ、別に」
「何か浮かない顔をしてる。こんな何にも無い田舎で、こんなオヤジとふたりっきりで退屈だろ?」
「そんなことないよ」
「今日ね、お土産買ってきたんだ」
紙袋を渡されて開けてみるように言われた。丁寧に包まれた包装紙を開けると浴衣が出てきた。
「来週の花火大会、行きたいって言ってただろう」
「えっ、だって康輔さん、人混みは苦手だって言ってたじゃないですか」
「気が変わった。もし気に入ってくれたらその浴衣を着て一緒に行こう」
「本当ですか。康輔さん、無理してません?」
「無理なんかしてない。日本に帰ってきてから花火なんて一度も見ていないし。たまには賑やかなところも行ってみよう」

この日のためにバスは増発されていて、バス停に着くとすぐにバスが来た。バスに二十分ほど揺られていくと、花火大会の会場である大きな湖の畔に出る。
場所を確保してビールを飲んでいると、程なく花火大会は始まった。
わずかな光の軌跡を描いて風を切りながら打ち上がる花火。夜空いっぱいに広がる光。一拍遅れてお腹に響く大きな音。火薬の匂い。こんなに近くで花火大会を観たことが無かったので、五感を揺さぶるその迫力に圧倒された。花火ってすぐに消えてしまうからこんなに美しいのかな。こんなに切ないのかな。

帰り道、下駄の鼻緒が擦れて親指の付け根の皮がむけてしまった。バス停を降りて家に向かう道はずっと下り坂で鼻緒が指の股に食い込んで来る。
「痛くて歩けない」
「どうした? 靴擦れか?」
「これって靴擦れって言うの? 下駄擦れ? 鼻緒擦れ?」
「何でもいいよ。見せてごらん」
彼は跪いて下駄を脱がせた私の足を膝の上に載せた。
「ああ、これは酷いな。自転車を取ってくるからここで待ってな」
「いやだよ。こんな真っ暗なところでひとりで待つなんて」
私は裸足の足を地面に下ろした。
「大丈夫。下駄を履かなければ痛くない。裸足で歩いていく」
「ダメだよ。暗いから何が落ちているか判らないし、傷口にバイ菌が入ったら大変だ」
彼は私の前にかがみ込んだ。
「よし、おんぶだ」
「えーっ、ダメだよ。足開かないよ」
「大丈夫だ。誰もいない。たくし上げろ」
彼は無理やり後ろ手で私の腿を抱えて立ち上がる。私は小さく悲鳴を上げて彼の肩にしがみつく。バランスが悪くて足を開かざるを得なかった。彼はずんずん歩いて行く。
「酷い格好。ごめんなさい。せっかく浴衣姿が可愛いって言ってくれたのに。これじゃ台無しだね」
「しょうがないさ。履き慣れない下駄なんか履かせたからいけないんだ」
来年までに少しずつ掃き馴らしておくから、来年も連れてってって言ったのに何も応えてくれない。もう懲りちゃった? こんな私を呆れちゃった?

「本当にごめんなさい。私、重いでしょ」
「重かないさ。俺はね、若い頃に半端ない鍛え方をしたんだ。最近は衰えたと感じることもあるけど、君をおんぶすることなんてなんともない」
そうだ、パパにおんぶしてもらったのは、最後の家族旅行でこの近くに来たときだった。誰かにおんぶしてもらったのはあのとき以来だ。私は両手を彼の首の前で組んで、頬を彼の頭に添えながら耳元でささやいた。
「昔ね、こうしてお父さんにおんぶしてもらったんだ。お父さんの背中は大きくてあったかだった。康輔さんみたいに」
彼は、そうかと言ったきり黙ってしまった。

「あっ、流れ星」
「ペルセウス座流星群って言うんだ。毎年、この時期に見られる。今日は月が出ていないから、空を見上げていれば結構飛ぶはずだ。帰ったらワインを開けて空を眺めてみるか」

私がシャワーをからあがると彼がレコードをかけるところだった。何の音楽か聞くと、オペラのアリア集だと言う。君の知ってる曲の方がいいと思ってって彼は言うのだけど、私はオペラなんて聴いたことが無い。
最近彼がお気に入りのデッキチェアを庭に持ち出した。小さなテーブルの上には冷やした赤ワイン。蚊の餌食になりそうなので、蚊取り線香を三つも焚いた。どこか郷愁を誘うようなこの匂いが私は好き。
ガーデンライトを消すと、部屋の灯りがわずかに漏れてくるだけになって、星の明るさが際立った。美しいソプラノの歌声を聞きながら、私たちはデッキチェアに寝そべって星空を眺めていた。オペラなんて聴いたこと無いって思っていたのに、知っている曲がいくつも流れた。テレビドラマの挿入歌だったり、コマーシャルに使われていたりするものがオペラのアリアだったなんてちっとも知らなかった。

流れ星は頻繁に飛ぶこともあれば、十数分現れないこともある。長くその軌線を描くものもあれば、すぐに消えてしまうものもあった。私はこんなに沢山の流れ星を見たことも、こんなに沢山の星々がひしめく夜空を眺めたことも、今まで無かった。

曲が変わって印象的な旋律が流れた。何という曲?
「“私を泣かせてください”っていう曲。ヘンデルの書いたリナルドというオペラの中のアリア」
そのとき、ひときわ明るく長い軌跡を描く星が流れた。
「流れ星に願いを掛けると叶うっていうの、ホントだって知ってた?」
「本当なんですか?」
「流れ星なんてめったに見ることはできないだろう。今日は特別いっぱい飛んでるけど…。しかも見たところで、すぐに消えてしまう。そんな儚い時間に願い事を掛けられる人は、常にそのことを強く思っている人でなければできない。そこまで強い思いを抱いている人間の願いは必ず叶えられる。昔、誰かからそう聞いて、その通りだと思った」
「康輔さんは何か願い事、あるんですか?」
「さあ、どうだろう。君は?」
「あります。流れ星に掛けることができる位の強い願い」
「何?」
「内緒です」
それから私たちは言葉も無く、切なく美しいアリアが融けていく星空を、ただ眺めていた。


エターナルライフ第10話 盛夏 康輔


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