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エターナルライフ第10話 盛夏 康輔

彼女は自分の家に帰ると言って朝早く家を出た。
公共料金の支払いや、郵便物の整理のために月に一度程度帰る必要があるのだ。
先月も同じ時間に発って、夜の早い時間に帰ってきたのに、どうしたことか今日は九時を過ぎても帰らない。俺は次第に心配になってきた。
もしかしたら、こんな山奥の生活がいやになって帰ってこないのではないか。ここには若い女の子が好きそうなものは何も無いのだ。いや、いくら何でも何も告げずに立ち去ることは考えられない。とすれば、どこかで事故に遭ったのではないか。
彼女を失うことへの不安が次第に膨らんできて、狼狽している自分を持て余していた。

彼女との暮らしは目に映る景色を一変させた。彼女がいるだけで、殺風景だった部屋の中が彩りに満ちた。
そう、俺は親子ほどの年の離れた娘に完全に心を奪われていた。
何度、そのしなやかな肢体を抱きしめる衝動に耐えたことだろう。その甘やかな唇を奪う誘惑に抗したことだろう。
だが、彼女の想いは図りかねた。俺に好意を持ってくれていることは確かだ。しかしそれは、単に思春期に亡くした父親を俺に重ねているだけなのかもしれない。
いや、そもそも俺には未来がないのだ。仮に彼女が俺をひとりの男として認めてくれているとしても、未来のない自分に縛り付ける訳にはいかない。
十一時を回った。今日帰ることはあり得ない。終電に乗っていれば家に着いている。居ても立ってもいられず公衆電話に向かった。

呼び出し音がむなしく響く。きっかり十回数えて受話器を置く。
どういうことだ。やはり事故に遭ったのか。電話ボックスを出て家に向かって歩き始めたが、思い直して引き返した。ダメ元でもう一度かけてみよう。このまま家に帰ったら不安で押しつぶされそうだ。
小銭を入れてダイヤルを押す。
「もしもし」
今度は呼び出し音が鳴らないうちにつながる。全身から力が抜けた。
「俺だ。黒田だ」
「ああ、良かった。さっきもかけてくれた?」
「ああ」
「お風呂に入っていて、慌てて出てきたんだけど、受話器を取ったら切れちゃって」
「裸なの?」
「そう」
「これはテレビ電話なんだぜ。よく見える」
「バカねえ」

彼女は家に空き巣が入って荒らされていたこと。警察に被害届を出して現場検証をされたりしているうちに終電に間に合わなくなってしまったこと。幸い貴重なものは置いて無かったので今のところ被害は見つかっていないことなどを少し興奮気味に話した。
「心配してくれたの?」
「…ああ、とても」
「ごめんなさい」
「君を、失ってしまうんじゃ無いかと…」
「康輔さん、私…、私ね、」
突然電話は切れた。小銭はもう残っていなかった。

翌日帰ってきた彼女に、電話を置かないというのもポリシーではないのかと聞かれた。その通り、ポリシーなんかではない。今まで必要を感じなかっただけだ。
ならば、ウチの電話を持ってこよう。移転手続きだけで済むからそれほど費用はかからない。そうすれば今回のような不測の事態に連絡が取れる。そう彼女は言った。
昨日の電話で言いかけたことに、言及はなかった。あえて俺もそれを聞かなかった。

ここは標高八百メートルを超えているので、真夏でも涼しく、この家にもエアコンは置いていない。しかし、毎年何日か耐えがたい暑さになることがある。風も無く、じっとしていても汗が噴き出す。そんな日だった。
「川に水浴びに行こう」
「え?」
「暑くてかなわん。行こう、着替えておいで」
「着替えるって言っても…」
「その格好じゃ川に入れないだろ。Tシャツと短パンとかさ」
ワンピースを着ていた彼女は、渋々着替えてきた。ジーンズのホットパンツに丈の短い黄色のTシャツ。でも、あまり乗り気ではなさそうだった。

川原でビーチサンダルを脱いで、俺もTシャツと短パンのままジャブジャブ川の中に入っていった。夏でも清流は冷たく、水に浸かる時は勇気がいるが、思い切って全身を浸けてしまえば慣れる。
「ああ、気持ちがいい!入って来いよ」
岸にいる彼女に叫ぶ。
「いい。私はここで見てる」
彼女は麦わら帽子をかぶって岩の上に腰掛けている。短パンから伸びる白い脚が眩しい。近づいていって水をすくってかけてやる。
「きゃー、やめて!」
かまわずバシャバシャかける。彼女は走って家に逃げていった。

その晩、彼女に聞いた。
「君は前に溺れたことがよっぽど怖かったんだな」
「川に入らなかったから?」
「そう。気持ちいいのに」
「私、水が怖いんです」
「怖い?」
「小さいときから水が怖くって、泳げないんです。川でも海でも見てる分にはいいんですけど、中には怖くて入れない」
「どうしてだろ。子供の頃に溺れたとか?」
「そういうことでも無いんですけど……。陸上のスポーツだったら何でも得意なんですよ。だけど、水泳だけはだめ」
「教えてあげるよ」
「いや。絶対にいや。私ね。よく怖い夢を見るんです。大勢の人が川の中でひしめき合っていて、私もその中にいる。溺れている人が、自分の呼吸を確保するために私を掴んで沈めるんです。私は息ができなくて、苦しくて、そこで目が覚める」
彼女は抱えた膝にしばらく額を乗せていた。
「目が覚めるともう眠れない。子供の頃はしょっちゅう見てた。今でも年に何回か同じ夢を見るんです。でもここに来てから一度も見てない」
彼女は上目遣いに俺を見て微笑みながら言う。
「だからダメなの。水泳は。そんな怖い顔しなくてもいいじゃない」

怖い顔になっていたかもしれない。もしかして、君は…。
生命は永遠なのか…。


エターナルライフ第11話 秋 美里


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