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夏草の匂い

ひどく蒸し暑い夏の夕方だった。
脱いだ上着を腕に抱え、ネクタイを緩めながらバス停に向かって歩いていく。
不発に終わった商談をどのように上に報告するか、ぼんやり考えながら坂を上る私をバスは追い越し、そして誰もいないバス停を停車せずに走り去った。

次のバスは……、20分後か……。
私は自販機で冷たいお茶を買い、バス停の脇にある小さな公園のベンチに座った。
ふと、強い草いきれが匂った。そうだ、この匂い……。

私は11歳の少年だった。
夏休みのある日、亮太と空き地でキャッチボールをしていた。
当時は誰の土地かも分からない空き地――子供達が自由に遊べる空き地が結構あったのだ。
私が取り損ねたフライは大きくバウンドし、隣家の垣根を越えた。
「やべえ、入っちゃったよ。しっかり取れよ正樹」
「おまえがノーコンなんだよ。あんな球取れねえよ」
私たちはその家の門の前に立ち、何度も呼び鈴を鳴らしたのだが応答がない。
「留守かな」
亮太がそっと門扉を押すと、かすかに軋みながらそれは開いた。
「鍵かかってないや。取らせてもらおう」
私は亮太に続いて中に入り、草いきれが立ちこめる植え込みを探した。
「亮太、あったぞ」
私は茂みの中に転がっていたボールを拾い上げて言った。
「よし、行こう」
亮太はそう言って門に向かって駆けていく。
ふと、視線を感じて見上げると、二階の窓から私を見下ろしている顔があった。長い髪の、色白の少女だった。
私は持っているボールを掲げて窓越しの少女に向かって叫んだ。
「ごめんなさい。勝手に入っちゃって。ボールが飛び込んだもんだから」
少女は無表情のままコクリと頷き、窓の奥に消えた。

翌日も、その次の日も、空き地で亮太とキャッチボールをした。
私は気になって何度もその家の窓を見上げたが、そこに少女の姿は無かった。

亮太は家族旅行に出かけていった。
私は一人で空き地に出かけていき、その西側にある倉庫の壁にボールをぶつけて投球練習をした。
帰り際にその家の窓を見上げると少女と目が合った。私は勇気を奮って手を振ってみると、彼女は笑みを返してくれた。
風に揺れるツユクサのような可憐な微笑みだった。

翌日、空き地を訪れると少女はその窓から私を見下ろしていた。
私が手を振ると、少女は窓を大きく開ける。一陣の強い風が彼女の髪を揺らした。
少女は私を手招きして庭を指さす。
「えっ?中には言っていいの?」
と叫ぶ私に少女が頷く。
私は門扉を開けて庭に入り、窓を見上げると少女はいない。
しばらくして現れた少女は紙飛行機を飛ばしてきた。旋回して庭に落ちた紙飛行機を拾い、彼女を見上げると、それを開くようにというジェスチャーをした。
紙飛行機を開くと几帳面な字で『私はしゃべることができない。でも耳は聞こえるよ』と書かれていた。
「僕は正樹、森田正樹。君の名前は?」
少女はまた奥に引っ込み、白いきゃしゃな手で紙飛行機を飛ばしてきた。
『私は山中美帆。あなたは野球をしているの?』
「そう。秋にはレギュラーになれるように練習してるんだ」
『そうなんだ。頑張ってね』
「ねえ、君もここに降りてこない? そしたらいちいち紙飛行機飛ばさなくてもいいじゃん」
『だめなの。私は外に出られない。病気だから』
「何の……、何の病気なの?」
『3年前に喉にガンができて、声帯を取っちゃったの。だから声が出せない。手術をして元気になったんだけど、最近また調子が悪いの』
「どこか痛いとか、苦しいとかあるの?」
『今は大丈夫。本当はあなたにここに来てもらえばいいんだけど。ごめんね。お医者さんが人と会うこともだめだって言うの』
「じゃあ、君はひとりぼっちなの?」
『そう、昼間はね。夜はお父さんと、お母さんが帰ってくる。部活に行ったお姉ちゃんももうすぐ帰ってくる』
「そうか。じゃあ僕はそろそろ帰るよ」
『明日も練習に来るの?』
「うん。そのつもり」
『もしよかったら、練習の邪魔じゃなかったら、こうしてお話しできるとうれしいな』
私は、私と同じような歳の女の子が過酷な宿命と向き合っているという現実にショックを受けた。力になってあげたいと思った。

それから何日か、空き地に行く私を彼女は窓辺で待っていてくれた。私はもう練習なんてどうでもよくなっていた。
彼女が微笑むだけで私は幸福だった。彼女のそばに行き、その柔らかそうな髪に触れたい。その白い小さな手に私の手を重ねたい。叶わぬ思いに身を焦がしながら、私は草いきれの立ちこめる庭で初めての恋を知った。

私は家族と海水浴に行くことになり、一週間来られないと彼女に告げると、自分は海を見たことが無いと書いてきた。
お土産は何がいいと聞くと、何も要らないと応えた後、思い立ったようにあっと口を広げて窓の奥に消えた。
飛ばされた紙飛行機には巻き貝の絵とこんな言葉が書かれていた。
『こんな貝殻が欲しい。耳に当てるとね、波の音がするんだって。何かの本で読んだ』

海水浴から帰った翌日、小遣いをはたいて土産物屋で買い求めた貝殻を持って空き地を訪れたのだが、窓に彼女の姿は無かった。
私は小一時間、ボールを壁にぶつけて練習していた。でもついに彼女は現れなかった。
翌日もその次の日も彼女に会うことはできなかった。

四日目の夕方、私は思いきって呼び鈴を鳴らした。
玄関から出てきたのは、多分彼女のお姉さん、彼女によく似た高校生くらいの女の子だった。
「あのう、美帆さんは?」
「どなた? もしかして正樹君?」
彼女から聞いたのだろうか。お姉さんは私の名前を知っていた。
私は彼女と知り合った経緯と、今までのいきさつを話し、海水浴のお土産を持ってきたことを告げた。
「美帆は、昨日亡くなったの。少し前に具合が悪くなって入院していたんだけど……」
私は呆然と立ちすくんだ。
「美帆は友達ができたんだって喜んでいたのよ。早く元気になって帰るんだって、お友達がお土産を持ってきてくれるんだって、楽しみにしていたんだけど……。昨日具合が急変して……」
お姉さんは泣きながらそう話した。
貝殻をお姉さんに渡そうとすると、直接美帆に渡してほしいと言った。

私は彼女の告別式で、棺に横たわる彼女の耳元に貝殻を置いた。
透き通るように白く、美しい顔だった。
「さよならって言わないでね。またねって言ってあげて」
お姉さんは私の肩に手を置いてそう言った。
堪えていた涙が止めどなくあふれた。


太陽は遠くの山の端に沈み、西の空を赤く染めていた。
メッセージの書かれた紙飛行機の束は、机の引き出しの奥にあるはずだった。
帰ったら読み直してみようと、丘の上を走るバスの車窓から灯り始めた街を眺めながら思った。
また、いつか君に会えるのだろうか。

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