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潮の香り

列車を降りて人気のまばらなホームに立つと、海からの風が潮の香りを運んできた。
私は目を閉じて、その香りを胸いっぱい吸い込む。私の中に澱のように溜まっていた疲労や恐れや諦観や、そんなドロドロとしたものを一緒に吐き出せることを願って、静かに息を吐く。

改札を出て駅前の通りを強い日差しを浴びながら歩いて行く。
私が小学生の頃、父親の勤めていた会社が契約する民宿に毎年家族で海水浴に来ていた海辺の町は、あの頃と少しも変わっていない。
あの頃は夏の海水浴、冬の温泉が、毎年の我が家のイベントだった。でもその家族旅行は私が中学二年の時に途絶えた。父親が急逝したのだ。
十数年ぶりに嗅いだ懐かしい潮の香に様々な思い出が蘇ってくる。

初めてその民宿に泊まった翌朝、家族で海辺を散歩していると、サーフィンに興じている人たちがいた。
うまく波を捉える人、乗れずに波においていかれる人、砕けた波にのまれる人。眺めていると飽きなかった。
ひときわ大きな波を果敢に乗りこなした少年が上がってきた。近づいてきた少年は息を弾ませて、おはようございます。と挨拶した。
「やあ、君か。上手いんだねサーフィン」
お父さんがそう応えると、真っ黒に日焼けした少年ははにかんで笑った。
昨日の晩、配膳の手伝いをしていた民宿の子だった。

その晩、
「サーフィンって気持ちよさそうだね」
思い切って配膳をしている少年に聞いた。
「最高に気持ちいいよ。君もやってみる?」
心配する母親を説得して教えてもらうことにした。民宿のおじさんも応援してくれた。
波の静かな海水浴場で明日の夕方、海に人が少なくなってからという約束で。
私は遠足の前の日みたいにワクワクしてなかなか寝付けなかった。

「立たなくていいからね。寝たまま」
ボードの幅が広すぎてパドリングがうまくできない私を、フィンを付けた少年が後ろから押してくれる。何回か失敗した後、波を捉えた。凄い! 思った以上のスピードだ。
何度もバランスを崩して波にのまれたけど、そんなのへっちゃらだった。
もっとやりたいとせがむ私を、家の手伝いがあるからまた明日と言われて、夕日が赤く染める海を後にした。

それから毎年、その民宿に滞在中、彼にサーフィンを教えてもらった。
最初は上手にできなかったけど、直ぐに1年前のカンを取り戻せて、私は年を重ねる毎に上手くなって行った。
少年は健児君といって私より5歳年上だった。私は彼をお兄ちゃんと呼び、彼は私を由美子と呼び捨てにした。兄弟のいない私はお兄ちゃんに会える夏が待ち遠しくてたまらなかった。

いつか、民宿に滞在中に隣の大きな町で花火大会が行われたことがあって、お兄ちゃんが連れて行ってくれた。
わずかな光の軌跡を描いて風を切りながら打ち上がる花火。夜空いっぱいに広がる光。一拍遅れてお腹に響く大きな音。火薬の匂い。こんなに近くで花火大会を観たことが無かったので、五感を揺さぶるその迫力に圧倒された。
帰りのバス停を降りると、下駄の鼻緒が擦れて親指の付け根の皮がむけてしまった。歩くとカランコロンと音がする下駄が気に入って、民宿から借りてきたのだ。
「お兄ちゃん、足が痛くて歩けない」
べそをかく私の足を見て、
「ああ、こりゃひどいな。よし、おんぶしてやる」
私は大きなお兄ちゃんの背中に揺られながら、このままずっと家に着かなければいいなと思っていた。
夜空に星が流れた。歓声を上げる私にお兄ちゃんが言った。
「ペルセウス座流星群っていうんだ。毎年この時期に見られる」
お兄ちゃんは何でも知っている。
「流れ星に願いをかけると叶うって本当?」
「さあ、どうかな」
次に星が流れたら、大きくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになれるように願おうと、私はじっと夜空を見つめていた。

父が亡くなると、旅行に行けるような経済的な余裕は無くなり、お兄ちゃんとはそれ以来会っていない。
母は懸命に働いて私を育ててくれた。高校の友達がファッションや異性に熱を上げるのを尻目に私はアルバイトに精を出した。出さざるを得なかった。
母子家庭と馬鹿にされるのが悔しくて、必死に勉強し、奨学金を得て大学に進んだ。
希望に燃えて就職した商社はパワハラがまかり通る劣悪な環境だった。過労死が社会問題になると、会社はオーバーワークの改善と称して残業時間を厳しく制限するようになった。社長の顔色を伺うことしかしない人事部は夜七時を過ぎると消灯にして体裁だけを繕った。それでは仕事が追いつかない私達はパソコンを持ち帰って自宅で深夜まで仕事。当然それは残業とは見なされない。
睡眠時間3~4時間でノルマに追われる日々に、次第に私の身体と精神は疲弊していった。
ある朝、頭痛がひどくて起きられなかった。私がプレゼンを担当する重要な商談がある日だった。
「這ってでも来い!」
怒鳴り散らす上司の言葉を最後まで聞かずに電話を切った。
以来、外に出られない日々が続いた。医者からうつ病と診断されたのは一年前のことだった。

わずかな退職金が底を尽きかけて、そろそろ職を探さないといけない時期に来ていた。でもその自信が無い。私を必要としてくれる職場なんてあるのだろうか。
外は夏の光があふれているのに、一日中ぼうっと部屋に閉じこもっている自分にも嫌気が差してきて、海を見に行こうと思いたった。胸いっぱい潮の香を吸ってみたかった。

海沿いの道を進んで、小さな橋を渡った先を左に折れる。記憶が蘇ってくる。
昔は草が茫々と生えていた民宿の庭はきれいに整備されてカフェを併設したサーフショップになっていた。
日よけのパラソルが差してあるテラス席でアイスコーヒーを頼んだ。
サーフショップを覗くと、日焼けした逞しい男性がさっきアイスコーヒーを運んでくれた可愛らしい女性と談笑している。お兄ちゃんだ。まだここにいたんだ。あの女性は、もしかして奥さん?
どうしよう。コーヒーを飲み終えたらこのまま帰る? それとも……。
考えがまとまらぬまま時間だけが過ぎていく。アイスコーヒーはとっくに飲み終わり、氷も溶けてしまった。いつまでもここにいるわけにはいかない。
私は勘定を済ませにサーフショップに入っていった。
レジの向こうにいるお兄ちゃんにお金を渡し、おつりをもらう。ありがとうございましたと言うお兄ちゃんに、
「あのう、あれ」
と、ショップの外に掲げてある幟を指さした。
「ああ、サーフィン教室ですか? 予約されますか?」
「あ、はい」
「この近くの方、じゃないですよね」
「はい、東京から」
「いつまで滞在されます?」
「あ、あのう、そういう予定も無くて……。あ、昔こちらの民宿にお世話になったことがあるんですけど、お部屋空いてたりしませんか?」
お兄ちゃんはちょっと調べてくると言って奥に消えた。
戻って来たお兄ちゃんは今日から2泊であれば一部屋空いていると言った。でも今晩はあり合わせの食事しか出せない。それでも良いかと。そして、2泊であればサーフィン教室は明日しかできない。明日は開催する予定は無い日なのだけど、特別に開催してあげる。
そんな話がまとまってしまった。
でもちょっと待って。泊まる予定が無かった私は着替えも水着も持って無いのだ。
チェックインを済ませた私は隣の大きな町まで買い物に出かけた。

「今日はなかなかいい波が来てるよ」
お兄ちゃんがショップから持ってきたロングボードを渡してくれる。
最初はうまく乗れなかったけど、昔の感覚を身体が覚えていたようで、直ぐにテイクオフできるようになった。
大きな波を捉えた。凄い疾走感。アップスアンドダウンを繰り返し、最後はスープになった波を降りた。いつのまにかお兄ちゃんが側まで来ていて拍手してくれる。
「なんだ、初心者なのかと思ったら上手いじゃない。経験者でしょ?」
「そう、昔あなたが教えてくれたんだよ。お兄ちゃん」
「えっ、由美子? 由美子か?」
「何で分からなかったの!」
何故が涙が止まらない。私はお兄ちゃんの厚い胸をドンドン叩いてそう繰り返した。
「どうした、由美子。どうしたんだ?」
お兄ちゃんはそう言いながら私をギュッと抱きしめてくれた。
私はお兄ちゃんの胸の中で泣きじゃくった。

晩飯は二人で食おうと言われて、お兄ちゃんの仕事が終わってから二人で海岸に出かけた。ビーチを見下ろす公園のベンチに2人並んで座ると、遠くに漁り火が灯る暗い海から潮騒が寄せてきた。
お兄ちゃんはテーブルクロスまで持ってきていて、そこにいくつもの料理を並べた。クーラーボックスには冷えたビールとワインが入っている。
「じゃ、乾杯だ。再会に」
お兄ちゃんはそう言って缶ビールのプルリングを引く。
「ああ、お腹すいた。こんなにお腹すいた感覚久しぶりだな」
「よし、食おうぜ!」
ひとしきり食べて、缶ビールを2本ずつ開けて、プラスチックのコップにワインをつぎながらお兄ちゃんが言った。
「突然来なくなっちゃったからさ、どうしたのかと思ってたよ」
私は今までのいきさつを全部話した。父が亡くなったこと、学校のこと、職場のこと、私の病気のことも全部。自分でも呆れるくらい饒舌に。
「あ、ごめんなさい。こんな話聞いてもつまんないよね」
「そんなことないさ。辛かったな」
「お兄ちゃん……」
私はいつからこんな泣き虫になってしまったんだろう。涙を抑えることが出来ない。
「戻って来てくれてありがとう」
私の手に添えられた手をギュッと握り返した。
「なあ、由美子、波と遊んでいると何で心地いいか分かるか?」
「何で?」
「昔、俺たちはみんな海にいたんだ。海にいたプランクトンがだんだん進化して、魚になって、そして陸に上がった。その頃のDNAが俺たちの身体の中に残っている。だから、太古の記憶が蘇って、心地よく感じるんだ」
「そうなんだ」
「そう。だからね、ここにしばらく居ればいい。ここで波と戯れていれば、直ぐに病気なんか治っちゃうさ」
「ありがとう。でも、迷惑じゃない? カフェで働いていた可愛い人、もしかして奥さんとか、彼女さんとかじゃ?」
「違うよ、ただのアルバイトさ。俺はまだひとりだよ」
「でも、私お金がないんだ。しばらく働いてなかったから。ずっと滞在することなんてできない」
「アルバイトの彼女ね、来週いっぱいで辞めるんだ。もし良ければここで働かないか? 住み込みで」
「本当? 私に出来るかな?」
「難しい仕事じゃないよ。由美子がここに居てくれたら俺もうれしい」
私はお兄ちゃんの肩に頭を預けた。
「私のこと、わかんなかったくせに。私は直ぐにわかったよ。お兄ちゃんだって」
「だって、俺の知ってる由美子はほんの子供だったじゃないか。こんな綺麗になっているなんて思いもしなかったよ」
お兄ちゃんがそっと、私の肩を抱いてくれる。
夜空に星が流れた。
でも直ぐに消えちゃって、願いをかけることが出来なかった。あの日の夜のように。

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