或る「博多の醤油蔵」伝 ジョーキュウ醬油(3) -現代。福岡大空襲と戦中戦後の醬油づくり-
1.聖戦完遂、戦時統制下の原料難。
Q5.1945年(昭和20)6月19〜20日の福岡大空襲では、「大火に囲まれ、現社屋南北の仕込タンク、桶百二本のある各棟全焼」と公式サイトにあります。ジョーキュウ醬油さんの戦後の復興はどのような道のりだったのでしょうか。施設の再建はもちろん、戦前戦中戦後の統制下の原料難や代用品の使用など、ご苦労が多かったと推察しますが。
三代目久吉が引退し四代目半次郎へ家督を譲った1939年(昭和14)のその10月、前年に公布された「国家総動員法」に基づく勅令第703号「価格等統制令」が発令された。
日中戦争に国家のリソースを集中させるため、国民生活に振り向けられる物資や資源が急激に逼迫してきたが、その品不足によるインフレ、物価騰貴の抑制を目論んで、国家総動員法に基づいて価格を据え置き値上げを禁止したのである。
同年9月18日現在の価格をもって上限とした公定価格制を打ち出したのだが、しかし闇価格の蔓延を抑えることは出来なかった。焼け石に水で、庶民の生活はさらに窮乏の度を増す。
統制の一例として、戦前から戦後にかけて映画館で上映された国策ニュース映画『日本ニュース』第15号(1940年(昭和15)9月17日公開)に、木炭切符を発行して配給とし闇取引を禁止したことが取りあげられている。
その当時、ジョーキュウ醬油ではどんな状況だったのか。
2.対米英戦争、突入。統制で商売にならず、社員も戦地へ。
1941年(昭和16)12月8日、大日本帝國は真珠湾攻撃および東南アジアやフィリピンへの攻勢を開始、ついに対米英戦争(日本側呼称『大東亜戦争』)に突入した。
決戦体制下の切迫した状況について、『150年の歩み』を改めて読む。
1944年(昭和19)6月15日、サイパン島攻略に呼応して、中国成都の基地を飛び立った米陸軍戦略爆撃機B29が北九州の八幡製鉄所へ初空襲を敢行。
マリアナ諸島が米軍に占領されB29の基地となったことで、日本は本州北端の青森までが爆撃圏内に入った。さしもの東条英機内閣も総辞職、政府が説いた空襲への楽観的プロパガンダはその後、焼夷弾の雨に押し流されることとなる。
3.運命の日、1945年(昭和20)6月19日。
マリアナ基地に展開した米軍第21爆撃軍団(1945年7月に第20航空軍と組織変更)が行った作戦は大きく3期に分かれる。
第1期は、1944年11月24日の中島飛行機武蔵製作所への爆撃に始まる、主として航空機産業など各地の軍需工場に対する高高度精密爆撃。
第2期は、1945年3月10日の東京大空襲から、低高度無差別焼夷弾攻撃に方針を変えて、大都市を焼き尽くす作戦に転換。
4月から沖縄上陸作戦支援のために実施した九州各地の特攻機基地への爆撃を挟んで、さらに第3期として6月17日の鹿児島、大牟田、浜松、四日市に対するミッションを皮切りに中小都市空襲の火蓋を切る。
1945年(昭和20)6月19日深夜に始まった福岡大空襲は、中小都市空襲の一環として実施されたものだった。米軍第21爆撃軍団の作戦報告書「作戦任務要約」から実施と結果の概要をみてみよう。
さらに『中小都市空襲』(奥住喜重、三省堂選書、1988年)には飛行経路の詳細が記されている。同書によれば、
6月19日に3つの都市(福岡、豊橋、静岡)に対して行われたミッションについては、まず福岡空襲担当の第73・313航空団がマリアナの基地を離陸した。編隊は硫黄島から西へ九州を目指して飛行し、宮崎の北部を抜け北西に進路を取って島原半島の北端へ。そこからさらに真北に進路を取り佐賀と柳川の間を抜け福岡市へ西から侵入した。投弾後は東に向かって右に旋回、甘木から延岡方面を抜けて太平洋上に消えた。
爆撃の際、市街から離れた早良の外れにある私の家内の実家では、納屋に焼夷弾が直撃して全焼。しかし母屋の被害は無く家族は無事だったそうだ。
米軍が「成果は多大」と喜んだ深夜の災厄、見舞われた市の中心部はどうだったのか。『150年の歩み』から引く。
社長夫人以下、女性3人の決死の奮闘が蔵を焼夷弾の業火から救った。
戦後米軍が撮った航空写真を見ても分かるが、四方から迫った火勢が本社屋周辺で辛うじて止まっている。神仏のご加護ともいうべき不思議な出来事も『150年の歩み』に記されてはいる。しかし、火事場のクソ力というと失礼だが、女性たちの、蔵を守らんがための一念が成し得た奇跡だったと信じたい。
もし社屋の中心部が爆弾でやられていたら蔵の歴史は90年で閉じていたかもしれない、と五代目松村冨夫社長は記している。
4.戦後の生産再開、日本全土飢餓時代の原料とは?
1945年(昭和20)8月15日、終戦の詔勅が発せられて、俗に15年戦争と言われる長い戦争の季節は終わりを告げた。〽古い上着よ サヨオナラ〜
当時の国内は、敗戦の8月から10月までの失業者数が男女合計で448万人、さらに内地復員者(軍人・軍属)761万人に、在外引揚者150万人もなだれ込んで、総計約1359万人が住まいと職を探し回っている有様。
さらに主食の米は、外米輸入が途絶した上に1945年は大凶作となって、農民の供出は12月末の時点で目標のわずか23%しか確保できない。食い物も住まいも働き口もなく、都市には数多の浮浪者が流れ込み、餓死者が続発した。
飢えは人間だけではない。東京の世田谷では食堂のウェイトレスが野良犬の群れに食い殺されるという悲劇も発生するほどに酷い状態であった。(『東京闇市興亡史』東京焼け跡ヤミ市を記録する会著・猪野健治編、1978年)
日本全体が極限の餓えと困窮に追い込まれていた敗戦後、ジョーキュウ醬油はどう業務を再開していたのだろうか、どんな仕込みをおこなっていたのだろうか。
全国津々浦々で悪戦苦闘が続く中、戦後の原料難に対して中央政府や大手醬油業界がどう対応しようとしたのか、その記録が残っていた。
キッコーマンの常務だった茂木正利氏が『日本釀造協會雜誌』74巻11号に寄せた『温故知新(Ⅲ) 第2次世界大戦の終戦前後に思う』という一文である。それによると・・・
1945年(昭和20)9月4日、丸の内海上ビル5階の農林省食料管理局分室に、政府の食品局長が主催して、農林省の上級官僚、大学教授、醬油統制会社などに加え、ヤマサ醬油の小貫基博士、野田醬油から茂木正利が出席して、戦後の醬油対策が協議された。
その他討議された代用原料は、田螺(たにし)、魚の腸(わた)、麬と糠、海藻など。当局の結論として、菜種油粕、魚粕、蚕蛹粕の三原料に、海藻、蒸留粕、アミノ酸液から作る掛け醬油を併用することになったという。
なんとも壮絶な時代だったという他はない。いまはどれだけ幸せなことか。
◇ ◇ ◇
茂木正利氏は『温故知新(Ⅲ)』の味噌の稿でこんな言葉を残している。
「我々の食生活を毎日賑わしてくれるが、国民の大多数は平和時に極めて関心がうすい」
これは醬油についても、いや食料すべてにおいて、43年後の現在でも言い得る言葉ではないだろうか。
(4)に続く。
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