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或る「博多の醤油蔵」伝 ジョーキュウ醬油(3) -現代。福岡大空襲と戦中戦後の醬油づくり-

1947年3月に米軍が撮影した福岡市中心部。
天神を中心に、東は中洲、呉服町、西は簀子、大名、長浜、荒戸あたりが焼失したまま。
国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」https://mapps.gsi.go.jp/

1.聖戦完遂、戦時統制下の原料難。

Q5.1945年(昭和20)6月19〜20日の福岡大空襲では、「大火に囲まれ、現社屋南北の仕込タンク、桶百二本のある各棟全焼」と公式サイトにあります。ジョーキュウ醬油さんの戦後の復興はどのような道のりだったのでしょうか。施設の再建はもちろん、戦前戦中戦後の統制下の原料難や代用品の使用など、ご苦労が多かったと推察しますが。

三代目久吉が引退し四代目半次郎へ家督を譲った1939年(昭和14)のその10月、前年に公布された「国家総動員法」に基づく勅令第703号「価格等統制令」が発令された。

日中戦争に国家のリソースを集中させるため、国民生活に振り向けられる物資や資源が急激に逼迫してきたが、その品不足によるインフレ、物価騰貴の抑制を目論んで、国家総動員法に基づいて価格を据え置き値上げを禁止したのである。

同年9月18日現在の価格をもって上限とした公定価格制を打ち出したのだが、しかし闇価格の蔓延を抑えることは出来なかった。焼け石に水で、庶民の生活はさらに窮乏の度を増す。

統制の一例として、戦前から戦後にかけて映画館で上映された国策ニュース映画日本ニュース第15号(1940年(昭和15)9月17日公開)に、木炭切符を発行して配給とし闇取引を禁止したことが取りあげられている。

その当時、ジョーキュウ醬油ではどんな状況だったのか。

だんだん原料の確保が難しくなってきた。昭和十四年の帳簿を見ると醬油の原料は、満州大豆、開花豆、アルク、小麦、裸麦、麬、脱脂米糠と早くも代用原料が顔を見せている。満州大豆が入荷しても量は年間で百四十石足らず、とても醬油には回せないので全部味噌の原料になった。(中略)
「ふすま」は後には醬麦(しょうばく)という、もっともらしい名前が付けられて戦後まで小麦の代用品として醬油の原料に使われている。

『150年の歩み』162P

2.対米英戦争、突入。統制で商売にならず、社員も戦地へ。

1941年(昭和16)12月8日、大日本帝國は真珠湾攻撃および東南アジアやフィリピンへの攻勢を開始、ついに対米英戦争(日本側呼称『大東亜戦争』)に突入した。

決戦体制下の切迫した状況について、『150年の歩み』を改めて読む。

すでに二年ほど前から重要物資の価格が凍結され、俗に○公(注:○の中に公の字、公定価格の意、まるこう)と呼ばれる統制価格が決められていたが、昭和十七年(1942年)三月からは、従来の米や砂糖、食用油に加えて、醬油、味噌も配給制になった。配給の量は東京地区で一ヶ月一人当たり醬油三合六勺(648ミリリットル)、味噌六十勺(225グラム)だった。若い人には統制経済という言葉の実態がわかりにくいと思うが、要は生産から消費までのすべてが国家の管理下に置かれたのである。

『150年の歩み』164P

まず原料の仕入れは専売の塩を除いてすべて統制会社から購入しなければならない。統制会社とは言っても実態は県の醬油工業組合である。過去の実績をもとに各社の割当が決まっており、その範囲でしか原料は入らないし、また販売についても実績に応じて販売先、数量が決められている。(中略)
ただ指図に従って納品するだけで、商売とは言えなくなってしまった。
(中略)
昭和十九年(1944年)になると戦況は次第に悪化してきた。男の職員は次々に兵隊にとられ、残っているのは年配の人か徴兵検査で不合格になった人、それに女子職員だけになってしまった。社長の半次郎も校区の警防団の役を仰せつかり、町内の防火演習など忙しくなってきた。

同166P

1944年(昭和19)6月15日、サイパン島攻略に呼応して、中国成都の基地を飛び立った米陸軍戦略爆撃機B29が北九州の八幡製鉄所へ初空襲を敢行。

マリアナ諸島が米軍に占領されB29の基地となったことで、日本は本州北端の青森までが爆撃圏内に入った。さしもの東条英機内閣も総辞職、政府が説いた空襲への楽観的プロパガンダはその後、焼夷弾の雨に押し流されることとなる。

3.運命の日、1945年(昭和20)6月19日。

マリアナ基地に展開した米軍第21爆撃軍団(1945年7月に第20航空軍と組織変更)が行った作戦は大きく3期に分かれる。

第1期は、1944年11月24日の中島飛行機武蔵製作所への爆撃に始まる、主として航空機産業など各地の軍需工場に対する高高度精密爆撃。
第2期は、1945年3月10日の東京大空襲から、低高度無差別焼夷弾攻撃に方針を変えて、大都市を焼き尽くす作戦に転換。

4月から沖縄上陸作戦支援のために実施した九州各地の特攻機基地への爆撃を挟んで、さらに第3期として6月17日の鹿児島大牟田、浜松、四日市に対するミッションを皮切りに中小都市空襲の火蓋を切る。

1945年(昭和20)6月19日深夜に始まった福岡大空襲は、中小都市空襲の一環として実施されたものだった。米軍第21爆撃軍団の作戦報告書「作戦任務要約」から実施と結果の概要をみてみよう。

神戸市文書館サイトより。作戦任務要約など報告書の表紙。

【作戦任務第211号】
1.日付:1945年6月19日
2.目標:福岡市市街地(90.35)
3.参加部隊:第73・313航空団
4.参加機数:237機
6.爆弾の型と信管:E46 500ポンド焼夷集束弾とE36 500ポンド焼夷集束弾は目標上空2500フィート(762m)で開束するようセット。AN-M47A2焼夷弾は瞬発弾頭
7.投下爆弾トン数:第1目標1525トン、第2目標13.3トン
8.第1目標上空時間:6月19日23時11分〜20日0時53分
9.攻撃高度:9000〜10000フィート(2743〜3048m)
11.損失機数合計:0機
12.作戦任務の概要:第73航空団の弾着写真によると、成果は多大、市街地におびただしい火災が発生。市街地の1.3平方マイル(20%)を破壊(以下略)

『米軍資料 日本空襲の全容 マリアナ基地B29部隊』(小山仁示訳 東方出版、1995年)
項目の5と10は省略。

さらに『中小都市空襲』(奥住喜重、三省堂選書、1988年)には飛行経路の詳細が記されている。同書によれば、

6月19日に3つの都市(福岡、豊橋、静岡)に対して行われたミッションについては、まず福岡空襲担当の第73・313航空団がマリアナの基地を離陸した。編隊は硫黄島から西へ九州を目指して飛行し、宮崎の北部を抜け北西に進路を取って島原半島の北端へ。そこからさらに真北に進路を取り佐賀と柳川の間を抜け福岡市へ西から侵入した。投弾後は東に向かって右に旋回、甘木から延岡方面を抜けて太平洋上に消えた。

爆撃の際、市街から離れた早良の外れにある私の家内の実家では、納屋に焼夷弾が直撃して全焼。しかし母屋の被害は無く家族は無事だったそうだ。

米軍が「成果は多大」と喜んだ深夜の災厄、見舞われた市の中心部はどうだったのか。『150年の歩み』から引く。

昭和二十年(1945年)六月十九日夜十一時ちょっと前、警戒警報が空襲警報に代わった。あらかじめ身支度を調えていた八重子(注:女子事務員・高尾八重子)とシズエ(注:事務補助・今林シズエ)の二人は急いで外に飛び出した。当時は社長夫妻も工場内に住んでいたので、防空頭巾を被った澄江(注:半次郎社長夫人)も飛んできた。半次郎は校区の警防団詰め所に走って行った。
(中略)
今会社にいるのは女三人だけである。工場横の空地(現駐車場)に出た八重子が西の方の空を見上げると、何かキラキラ光る物がザーという音とともに落ちてくる、と同時に火の手が上がった。

『150年の歩み』168P
1939年12月大日本帝國陸軍撮影の福岡市街。ちょうど真ん中に「枡形道」が見える。
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1947年3月に米軍が撮影した福岡市中心部を拡大した。
社屋の東側と西側から火災が迫りながら、間際で止まったことが解る。
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(前略)
北側の温醸庫(現第一倉庫)が燃えだした。類焼を防ぐために澄江は鳶口を使って木製の塀を壊した。道路を隔てた第二工場と倉庫は猛烈な火に覆われ手のつけようがない。工場東側のあちこちから火が出てきた。ここで食い止めないと社屋全部がやられてしまう。猛烈な火の粉と熱風が襲ってきた。澄江、八重子、シズエの三人は、防空頭巾の上から水を被りながら、ポンプやバケツなどで必死の消火作業を続けた。ボイラー室のレンガ壁が防火壁となってくれた。

『150年の歩み』169P

社長夫人以下、女性3人の決死の奮闘が蔵を焼夷弾の業火から救った。

戦後米軍が撮った航空写真を見ても分かるが、四方から迫った火勢が本社屋周辺で辛うじて止まっている。神仏のご加護ともいうべき不思議な出来事も『150年の歩み』に記されてはいる。しかし、火事場のクソ力というと失礼だが、女性たちの、蔵を守らんがための一念が成し得た奇跡だったと信じたい。

もし社屋の中心部が爆弾でやられていたら蔵の歴史は90年で閉じていたかもしれない、と五代目松村冨夫社長は記している。

4.戦後の生産再開、日本全土飢餓時代の原料とは?

1945年(昭和20)8月15日、終戦の詔勅が発せられて、俗に15年戦争と言われる長い戦争の季節は終わりを告げた。〽古い上着よ サヨオナラ〜

当時の国内は、敗戦の8月から10月までの失業者数が男女合計で448万人、さらに内地復員者(軍人・軍属)761万人に、在外引揚者150万人もなだれ込んで、総計約1359万人が住まいと職を探し回っている有様。

さらに主食の米は、外米輸入が途絶した上に1945年は大凶作となって、農民の供出は12月末の時点で目標のわずか23%しか確保できない。食い物も住まいも働き口もなく、都市には数多の浮浪者が流れ込み、餓死者が続発した。

飢えは人間だけではない。東京の世田谷では食堂のウェイトレスが野良犬の群れに食い殺されるという悲劇も発生するほどに酷い状態であった。(『東京闇市興亡史』東京焼け跡ヤミ市を記録する会著・猪野健治編、1978年)

日本全体が極限の餓えと困窮に追い込まれていた敗戦後、ジョーキュウ醬油はどう業務を再開していたのだろうか、どんな仕込みをおこなっていたのだろうか。

ジョーキュウ醬油では空襲の後も八月十六日まで軍への納品を続けているが、その後はすべての仕事が中断している。福岡市内の配給が再開されたのはその年の十一月である。幸い原料の備蓄が多少はあったので仕込みを再開した。

『150年の歩み』173P

昭和二十二年(1947年)の統制会社からの原料支給簿を見れば、脱脂大豆醬麦(ふすま)はよしとして玉蜀黍粕南瓜粕甘藷(サツマイモ)などが記帳されており、穀物の粕や野菜、原料になりそうな物は何でも、という当時の状況がよく分かる。それもあればいい方で、一ヶ月間何も原料が入らないこともあった。久留米のある同業者は糸島に倉庫を借りて、近くの漁師から小魚を仕入れ塩付けにして発酵させる、つまり魚醤を作って醬油の材料にしていたという。特有の匂いがついた醬油だったろうが、そんなことを気にする消費者は誰もいなかった。

『150年の歩み』174P 太字は筆者

全国津々浦々で悪戦苦闘が続く中、戦後の原料難に対して中央政府や大手醬油業界がどう対応しようとしたのか、その記録が残っていた。

キッコーマンの常務だった茂木正利氏が『日本釀造協會雜誌』74巻11号に寄せた『温故知新(Ⅲ) 第2次世界大戦の終戦前後に思う』という一文である。それによると・・・

1945年(昭和20)9月4日、丸の内海上ビル5階の農林省食料管理局分室に、政府の食品局長が主催して、農林省の上級官僚、大学教授、醬油統制会社などに加え、ヤマサ醬油の小貫基博士、野田醬油から茂木正利が出席して、戦後の醬油対策が協議された。

昭和21年7月までに間に合うよう従来の小麦、大豆を使用しないで、他の代用原料で必要量300万石(金谷事務官の説明では、現在の醬油生産額360万石のうち60万石は自家醸造であるという)。即ち300万石の醬油を製造して、国民に対し生活必需品の使命を達成したいと力説する。

農林当局はまず菜種油粕、魚粕、蚕蛹粕の3者で120〜130万石の醬油は確保できると報告し、更に大豆代替物として各種の植物性油粕を原料とする醬油及びアミノ酸の製造は・・・(中略)
その結果は総ての油粕が醬油資源として活用できるし、中でも落花生粕は優秀で、次は亜麻仁粕とのことである。更に魚汁で約10万石、値段は安いが腐敗しやすいので・・・

『温故知新(Ⅲ) 第2次世界大戦の終戦前後に思う』茂木正利 1979年

その他討議された代用原料は、田螺(たにし)、魚の腸(わた)、麬と糠、海藻など。当局の結論として、菜種油粕、魚粕、蚕蛹粕の三原料に、海藻、蒸留粕、アミノ酸液から作る掛け醬油を併用することになったという。

なんとも壮絶な時代だったという他はない。いまはどれだけ幸せなことか。

◇   ◇   ◇

茂木正利氏は『温故知新(Ⅲ)』の味噌の稿でこんな言葉を残している。

(1)平和時に無関心
 味噌は平和時の日常に合致した食品で、味噌汁、味噌煮、味噌焼、嘗味噌(なめみそ)の他に菓子にも利用されるなど、我々の食生活を毎日賑わしてくれるが、国民の大多数は平和時に極めて関心がうすい。近年は農家も一般家庭も、味噌の自家醸造は急激に減少する傾向にある。
 それ故、最近は味噌の原料や製法を知らない人が増加するのは実に寂しいことである。

『温故知新(Ⅲ) 第2次世界大戦の終戦前後に思う』茂木正利 1979年

「我々の食生活を毎日賑わしてくれるが、国民の大多数は平和時に極めて関心がうすい」

これは醬油についても、いや食料すべてにおいて、43年後の現在でも言い得る言葉ではないだろうか。


(4)に続く。


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