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半熟小説 | 詐欺から出たマコト


この小説は、まだ半熟状です。

登場人物もストーリーも固まっておりません。
2024年9月2日から考え始めたばかり。

ですので、ずっと先の章の一場面だけが書かれていたりします。

順番に話が進むわけではないため、創作途中の様子を見て楽しめるかただけご購入ください。

完結した小説ではありません。
つまり、書きかけです。

エピローグを起点にして、ある交通事故の日まで日々を、さまざまな立場の人が辿ります。

主人公の一人は、65歳の独身男性です。仕事に誇りを持って生きてきた主人公の翁丞が、ある事件をきっかけにノンフィクション小説を書くことを決意します。

翁丞は、自費出版した紙の本を追うことで事故のマコトに迫っていくのです。

事故後に亡くなってしまった関係者もいて、翁丞や遺族の探しているしんじつは、そう簡単に姿を現さなくて…。



⚠️ご注意ください!





俺の小説に興味がある奴なんているのか?


エピローグ


一体、いつ何がどうなるって言うんだろう。

あからさまな作り話に辟易した翁丞おうすけは無言のまま黒電話の受話器を置こうとした。

「ちょっと待ってください。貴方様の作品を何度も拝読した上でのご提案なんですよ。」

ずいぶん流暢に嘘が出る人間がいるもんだ。それにしたって、俺の実話はなしなんか誰も読んじゃいないはずだが。

会員数800万人を超える小説サイトで、三年前まで定期的に新作を投稿していた黒岩翁丞は、どこで個人情報が漏れたのか記憶を辿っていた。

サイト投稿ではらちがあかないと思ってコンクールに何度か応募したこともあったが…。そういえば一社、倒産した老舗の出版社があった。いやいや、あの会社は個人情報を漏らすほど落ちぶれてはいない筈だ。かつての社長や名物編集者達は皆、新たに会社を起こしたり随筆家に転身して活躍してるのをテレビやネットニュースで見かける。

「作品って、どういうことなんだ?おまえさん、どこから電話してる?新手の詐欺じゃないのかね。おかしいだろ。初めに三十万いるだって?こっちが年寄りだからって舐めてんだろ。」

コホン、コホンとわざとらしく咳払いした後、30代と思しき女が綺麗なよく通る声を創り、程よいテンポを保ったまま話し続けた。

「皆様、初めはそう仰るのです。けれども、大手出版社様なら作品の著作権はあってないような扱いになりますよ。改編、加筆という名の原作軽視。更なる映像、コミック展開により、元の素晴らしい作品世界は殆どなくなってしまう。それでも構わないのですか…。そのようなプライドのない西園寺様ではないですよね?」

確かに映画によっては原作の良さがなくなって別物になるケースもなくはないが…。西園寺とペンネームで話を進める女が、翁丞の本名や住所まで手に入れているのではないかと不安を募らせた。

「そうは言っても、原作が再注目されれば原作者は報われるだろう。印税が入れば、次の作品だって書く余裕ができるんだ。それのどこが悪い?改稿はプロなら当たり前だろうが。本当に出版社の人間なのか、お前さん達は。」

横からヤイヤイ言う女もまた三十前後のようで、声が若い。どうやら電話の主は操り人形に過ぎないらしい。反論が浮かばなくなると電話を手でおおいアドバイスを求めているようだった。

「そんな茶番に付き合うほど暇じゃないんだ!切るぞ。」

「ま、待ってください!西園寺様の『リコール隠し』は、ノンフィクションなんですよね。このまま真実が闇に葬られても構わないのですか。更なる犠牲者が出てもいいのですか。」

なんだと?本当に俺の小説を読んだというのか?

大阪のしがない町工場を退職してからは、もうディアフォーユー社の報道は追わないと決めて、新聞もニュースも見なくなっていたのだが…。何かまた良からぬことが起きたのだろうか。

「何があったのか、詳しく聞かせてもらいたい。出版の話はそれからだ。」

電話越しにも、女二人の喜びは伝わってきた。俺は三日後の午後2時に、県庁前のカフェで会うことにした。


第一章 女二人の正体

「申し遅れました。私共は、新聞記者とジャーナリストでして。」

地元新聞社の名刺を丁寧に差し出す女は、電話していたほうではなさそうだ。俺が毎日の日課に読んでいる新聞にこの女の文章も入っているのだと思うと、なんだか100%疑いの目を持つのも違うのではないかという気がしてきて、我ながら現金なものだと可笑おかしくなってきた。

「どうしても西園寺さんに会ってお話したいことがあったものですから。出版なんて嘘をついて申し訳ありません。」

電話の時とは打って変わって、二人とも静かに俺を認めた。

「実は私達姉妹は、あの事故の遺族なんです。」

「な、なんと今⁈」

「この写真は、ディアフォーユー社のバスに轢かれ亡くなった私達の家族です。」

新聞記者だという姉が、七五三の時の写真とおぼしき着物姿の三人を見せてくれた。お寺の立派な門前で、輝くばかりの男の子を左右から笑顔の父親と母親が手を繋いでいる。大事な我が子の節目を祝う幸せな家族。

それなのに…あの事故が全てを奪ってしまったんだ…。

俺が封印してきた忌わしい記憶が、脳内で次から次へと噴き出し始めている。

「確か弟さんは、マコトさんでしたね。誠に申し訳ないことを…。」

俺が起こした事故でなくとも、あのバスの部品は俺がいた町工場で製造していた。しかも、あのバスの販売会社はリコール隠しが後に発覚している。それを、俺や子会社の人間がいくら訴えても、ないものにしてしまったんだ。大企業様がな。いや、俺に力が足りなかったから、事故が起きてしまったとは言えないか。仕方なかったなんて言うのは言い訳に過ぎないのではないか。


「お二人は、どうやって私の本を入手したのですか。自費出版で、身内と友人にしか配っていないのですが。」

「それは、あの事故の関係者を一人一人しらみつぶしに訪ねて…。」

妹がそう話すのを制して、姉のほうがまた話を継いだ。

「この本を譲ってくださったかたと、約束したんです。誰から手に入れたのかは秘密にするって。だから、その点はどうか追求しないでください。よろしくお願いします。」


熱心に話しかけてくる田舎には珍しい洒落た服装の女二人と、俺のような着古した上下スエットの初老の男。カフェの店長で俺の幼馴染が心配するのも無理はないというものだ。店員さん達もチラッチラッと見ては眉間に皺を寄せていた。

バブル期に建てられたビルの二階にある古い店内は、ヨーロッパの寺院をイメージしたインテリアが時代遅れだ。苦学生だった翁丞は、かつてここの調理場でアルバイトをしていた。年老いてからは唯一の憩いの場となっている。

今のオーナーは学生時代の二つ年上の先輩で、ハンチング帽がトレードマークの気のいい奴だ。店員や常連からは、強面の風貌と人情家であることから、おやっさん、やっさんと呼ばれている。店は、店長に任せてはいるものの、話好きなやっさんは毎日のように顔を出すのだった。

「西園寺さんが、この本に書かなかったことがあれば、私達姉妹にお話いただきたいのです。もう三年前のことですから、すぐに思い出すのは無理だと思うのですが。どうか、三人を成仏させてください。このままだと、ただの交通事故ということになります。それでは、きっと私達家族のような思いをする人間がまた生まれてしまうんじゃないでしょうか。この本に書かれたことが真実なら。」

ブラックコーヒーを飲み干した俺は、腹をくくってこう告げた。

「分かりました。思い出したことがあれば、必ずお二人にお話します。二週間ほど時間をいただきたい。お願いします。」

二人の表情に、初めて明るい笑みが灯った。

「こちらこそ、無理なお願いをして申し訳ありません。どうかよろしくお願いします。」

深々と頭を下げられ、慌てて俺も立ち上がる。

亡くなった三人の尊い命に、俺なりに精一杯の償いをさせてほしい。写真の三人の笑顔が俺に火を点けた。残りの人生を、このご遺族の無念を晴らすことに費やすのは、きっと神の思し召しなんだろう。



「あれじゃ、まるで宗教の勧誘かデート商法に引っ掛かるオヤジだよな。」

オーナーであるやっさんに、店長と店員達が小耳に挟んだ会話や女達の特徴をつぶさに告げていた。

田舎のカフェは、ほぼ常連客しか来ない。会話も家族の悪口か仕事の愚痴、あとは病気自慢と相場は決まっている。

そんな日常に、スーツとワンピースの若い女が現れて、何やら込み入った話をしていれば、心配するなと言う方が無理だろう。

たった一人の肉親である母の介護をしながら生きてきた翁丞。去年96歳で母親があの世へ旅立ってから孤独だった。独身のままでもなんとか元気でいられるのは、カフェの人々が翁丞を家族のように見守っているからだった。


カフェのみなが噂しているとも知らず、俺は家へと急いだ。

不思議なのは、どうして自費出版した本をあの二人が手にしていたのか、だ。

家族の交通事故の真実に、無名の人間が書いた小説が関わると誰が考えるのだろう。姉妹の仕事がいくら新聞記者とジャーナリストでも、俺の小説をネットで見つけることが可能だろうか。ましてや、自費出版したことをネットに書いたことはない。

事故のニュースは、一時的に世間から興味を持たれたが、二週間もすれば忘れ去られてしまう。ネットで憶測が飛び交えば尾鰭がついて核心がぼやけてしまうことだって少なくない。

第一、俺にも、あの事故の真相はわからない。

リコール隠しだけが原因ではない可能性も否定できない。当時のメディアや世論には、合併する随分前にリコールはわかっていたのではないかと指摘する声や、バスの運転手が事故を起こした半月後に亡くなったことから過労死を疑う声もあった。

バス旅行を企画・運営していたーディアフォーユー社は、旅行会社を経営しながらグループ会社で自社バスを所有し運転手兼ツアーガイドを社員とすることで低コストを実現していた。女性のバスガイドのほうが人気は高いが、ハラスメント対策にかけるコストを削るには男性社員にツアーガイドをさせるほうが都合が良かった。

バスの運転手になることができる人間の何割かは、旅好きが高じて仕事にするものもいる。そこを利用して、ガイドもできるバス運転手にはボーナス制度を設けた。社長夫婦のアイデアは他社にはないもので、運転手同士がペアになることで、万が一の体調不良の際も、ツアー続行が可能だったのだ。評判が評判を呼び、ディアフォーユー社のツアーは予約開始日に完売するほどだった。

しかし、あの事故で会社は倒産。俺は小説を書くために、かつての本社や社長夫婦が住んでいた自宅に何度も足を運んでみたが、どこかの週刊誌やテレビのレポーターらしき人々を時折目にするだけで、社長夫婦の行方はわからないままだ。

三年も経った今、当時の社員達と話すことは難しいだろう。それでも俺は、ご遺族に約束した以上、当時の勤務体制を社員の誰かから掴みたかった。せめて当日の勤務者と勤務状況だけは把握しておきたい。そう思う理由が、自分でもよくわからない。自分のいた工場の部品だけが原因だと思いたくないのだろうか。責任を負わなくて良くなるわけではないのに、少しでも他の原因を探してみたいと考える自分が浅ましくて、あの姉妹に合わせる顔がないような気がする。

あの事故を起こしたバスには、俺が製った部品も使われていた。45年も働いた会社は、事故とリコールですっかり世間から信用されなくなった。俺の人生は終わったも同然だった。

俺の手元には、まだ『リコール隠し』が53冊残っている。身内や友人、かつての教え子に配った47冊は、いつ姉妹のもとへ渡っていったのだろう。

先ずは、妹や親戚に聞いてみるか。



第二章 『リコール隠し』を持っている人々

一冊目

「なぁ、なぁ。覚えてるか。俺が昔、小説を書いて本にしたことがあったろう。あれ、今も美月は持ってるか?」

「もうー。お兄ちゃん、一年ぶりの会話が意味不明なんだけど。本なんかもらったことあった?」

「ほら、濃紺の結構いい紙を使ってさ、金で『リコール隠し』って、タイトル入れてもらったやつだよ。さては、美月。どうせ一ページも読んでないんだろう?」

「あー。あれか。思い出した。うーん、五ページ…二ページかな、読んだけども。正直、話がかたくって、おバカのみーちゃんには何のことやらわからなかったんだよね。」

「それは残念だな。それで、本はどこにある?今も持ってるか?」

「あると思うよ。本棚を見てみるね。また電話かけ直すわ。お母さんが呼んでるから。たまには、お兄ちゃんも顔を出してよ。お母さん、せっかく退院したのに、お兄ちゃんが会いにきてくれないってご機嫌ななめなんだから。」



二冊目

「ご無沙汰してます。翁丞です。」

「あら!珍しい。元気にしてたの?」
90代とは信じ難いほど、明るくハリのある叔母の声が、黒い電話機から聴こえてきた。

互いの近況報告をした後、俺は事故で亡くなったご遺族に会ったことを伝えた。

「まさか、そんな…。今頃になって…。また、裁判で訴えられるの、おうくんは。」
叔母の声が震えている。

「心配しないでください。裁判がしたくて連絡してきた訳じゃないんです、あの娘達は。」

「そうなの?それならいいのだけれど。」まだ疑っている様子の叔母の後ろで、グループホームの人から夕食の時間ですという声がけがされた。

「もう切らなきゃいけませんね。あとひとつだけ。叔母さんにお渡しした、『リコール隠し』なんですが、今も持ってますかね。俺が自費出版したやつです。」

「あれね。十冊とも…。ごめんなさいね、誰ももらってくれなくて。私がそのまま持ってるわ。ホームのお部屋がが狭いから、トランクルームに入れたままになってるけど。」
優しい叔母が周りの人にも読んでもらうと言って、十冊もまとめて購入してくれたのを、今更ながら有り難く思った。
「それならいいんです。あの時は、たくさん購入していただいて、ありがとうございました。」
電話越しに、叔母を呼ぶ人の声が聞こえてきた。

「ごめんね、もう行かないと。グループホームって助かるけど、自由はそうないのよ。切るわね。また用があれば連絡してね。」

十二冊目

「ご無沙汰してすみません。翁丞です。叔父さんはお元気ですか。」

「オウスケさん…。失礼ですが、どちら様ですか。お義父さんは一昨年の夏に亡くなりましたけど。」

迷惑そうなその声は、叔父から何度か愚痴を聞かされていた従兄弟の嫁さんだ。気が強いとは聞いていたが、確かになかなかの口調で、今にも会話を終わらせようとしていた。手早く用を伝えなければと俺は焦った。

「叔父さんの葬式に出られなくて申し訳ない。あの時、僕もコロナにかかっていたものですから。ちょっと以前お渡しした本のことで、従兄弟の稔君に聞きたいことがあるんですが。」

「あぁ。稔さんの従兄弟の!すみません。コロナでお葬式も結婚式も暫くなかったから、すっかりお顔が頭から消えてしまって。ごめんなさい。私ったら。」

俺の存在を思い出すと、嫁さんの口調は至って穏やかなものになり、それまでの棘のある会話は消え去った。

「いえ。叔父さんがコロナになって大変だったと聞いてました。僕のほうこそ何もできなくてすみませんでした。ところで随分前になるんですが、『リコール隠し』という本を叔父さんに買ってもらったんです。五冊ほど。今もお宅にあるでしょうか。」

「本ですか?リコール…。えぇっと、どんな本でしたっけ。リコール…。」
思い出そうと記憶の鍵穴を探す嫁さんだが、ちっとも思い出すことができないようだった。

「濃紺に金色で文字が。西園寺道夫の本です。」

「あー。思い出しました。あの本でしたら稔さんの書斎にあるはずです。必要なんでしたらお送りしますよ。」

「あるかどうかわかれば十分なんです。同じ本が手元にありますので。お手数おかけしてすみませんが、お願いします。稔君によろしく。」

嫁さんの明るい声に、稔君はきっと幸せな余生を送っているのだろうと想像した。独身の俺には羨ましい限りだ

残りの本は、また来週から追いかけることにしよう。

それにしたって、直接会わなくても親戚なんてのは電話するだけで疲れるもんだな。


第三章 葬式に来た人々

「おばちゃん、あの人ね、さっきから手をグーにして震えてるの。あのおじさん、だぁれ?」

両親と弟を亡くしたばかりだというのに、葬儀を懸命に手伝う姉の静香の邪魔にならないよう、妹の奏が小声で尋ねてきた。

静香は大学生になって実家を出ていたとはいえ、18年の田舎暮らしから冠婚葬祭の時に女は座らないというのを芯から身に付けているようだった。いい年をした美都子のほうが、ただオロオロして手持ち無沙汰でいる。

「あら…。ほんとね。雨に濡れるのに、どうして外にいるのかしら。」

姉が突然いなくなったことに実感が持てず、ぼんやりと美都子は棺を見つめていた。

正面衝突したバスは燃え、姉家族が乗っていた車は大破するという大きな事故だったという。にも関わらず、綺麗な顔のまま死んでいった姉の姿は、少し眠りについただけのようにしか見えなかった。

「お、ば、ちゃん!あの男の人、震えてるよ!」

また、姪の奏から腕をゆすって訴えられた。ご近所の方々の手伝いもあって、葬儀後の準備も滞りなく進んでいるようだ。美都子は仕方なく、外へ出て、見知らぬ男に声をかけることにした。

ザッ。ザッ。草履で砂利道を進むのは本当に厄介だ。亡くなった姉の着物は少し裄が合わない。祖母が上手く着付けてくれたが、普段まったく着物を着ないからか、どことなく苦しくて息がつまる。田舎の葬式は面倒なことばかり。なぜ親族は絶対に着物なんだろう。

まさかこんなことになるなんて。あのこたち達は、これからどこで暮らすのかしら。

ひとりポツンと佇む男が誰なのか見当もつかないが、こうして葬儀に足を運んでくださったのだから、姉か義兄につながりがある人物であることは間違いなさそうだと思った。どちらにしても、失礼のないようにしなくては。

亡くなった甥の小学校の先生方や生徒さんは、昨日のお通夜でお別れをしてもらった。葬式にマスコミがこぞってやってくるだろう。この悲しい事故をより悲劇として演出するため、泣いている子どもを選びインタビューするに決まっている。お別れに来てくれた子供たちの姿がテレビなどに晒されるのは避けた方がいいと、美都子は思った。正義感の強い姉なら、きっとそう望むはずだ。


「あの…。どちら様か存じ上げませんが、中でお別れしていただいたら。亡くなった姉達も、きっとそう思うはずですから。」

男に傘をさしかけ声をかけたが、声にならないのか押し黙ったままだ。やがて男は両手を合わせ頭を下げたと思うと、足早に去っていってしまった。

「奏ちゃん、おじさん帰っちゃったわ。用があるんだって。」

「ふうーん。変な人。二十分も外にいたよ。」

納得がいかない様子で奏が外を見ると、姉の静香もまた、男が立っていた辺りに一瞬、鋭く視線を投げた。

「静香ちゃんは知ってるの?あそこにいた男の人のこと。」
美津子にこう尋ねられ、ハッと我にかえった静香は、無言で首を横に振った。

ご近所から手伝いに来ている御年配が、口々に静香を褒めたり慰めたりする。それに対し静香は、判で押したように「ご親切にありがとうございます。」と告げるのだった。


「奏ちゃんのこと、どうしたらいいかしらね。うちに来るかい?」
奏の祖母、松子は奏を抱きしめて涙ぐんだ。そのまま、二人は亡くなった父親と母親の元へ行くと、奏は初めて声をあげて泣いたのだった。奏のあまりに泣きじゃくる様子に、弟の棺には近寄ることができなかった。

姉の静香が一度も涙を見せなかったためか、あまりのショックから感情が出せずにいたのか、この時まで奏は涙を見せていなかった。

松子は、奏の進学のことや結婚のことも考えて自分が面倒を見るつもりでいた。お金なら、亡くなった夫の遺族年金と手をつけずにいた退職金がある。

「おばあちゃんのこと、奏ちゃんは好きやろう?」
皺の刻まれたあたたかい手が、奏は嬉しくて少しだけ痛いと思った。

「うん。大好き。でもね、お姉ちゃんがね、奏のお部屋があるって。大丈夫って。」

「なにが大丈夫なもんかね。静香ちゃんも、就職して結婚もせなならん。奏ちゃんの世話をしながら、仕事はできんやろがね。」
祖母の松子の気持ちを代弁するかのように、美都子の夫、政信が口を挟んできた。

ガチャン!

ビールの瓶とグラスが、静香のお盆からおちた。廊下は、割れた破片が散らばって、瓶からドクドクと液体が流れている。

「あの…。心配していただけるのは有り難いのですけど、私もう内定もらってますし。奏と二人で生きていけますから。」

泣きながら破片を拾う静香に、祖母の松子が寄り添った。

「ごめんな、静香ちゃんの気持ちも聞かんと。怪我したらいけん。ばあちゃん達に廊下の掃除は任せて。今夜はもう眠りなさい。」

こくりとうなづく孫の静香の背中を、松子はトントンとして最後に丸くさすった。

奏が不安でいっぱいの顔をしているのに気がつくと、静香は微笑みをつくり奏の手を引いて廊下を歩いていった。


フーと溜息をつく政信の背中に、落雷のようなものが落ちてきた。

バシーンと音が聞こえた気がした。力いっぱい叩いたのは、普段はおっとりしているだけの妻、美都子だった。

着物を着ていても、女の手であっても、これほど大きな力で撃ち抜かれるとは。

あまりの驚きに政信は、な、な、な、と何度も言って、後ろ歩きで玄関から出ていくと車でどこかへ行ってしまった。

「みなさん、子どもたちが眠りますので、今日はこのあたりで。姉夫婦と甥のために、本日は誠にありがとうございました。まだ雨が降っておりますので、くれぐれも事故のないよう気をつけてお帰りください。」

美都子の手と声には、亡くなった姉のなにかが重なっている。誰もが逆らえないと感じていた。

「おはよう。二人とも、そろそろ朝ご飯にせんかね。」

松子が襖をスーと開けると、綺麗に畳まれた布団二組と、青い便箋に書かれた置き手紙があった。

おばあちゃん、おばちゃん、おじさん、みんなみんな心配してくれて感謝しています。でも、私達は二人でやっていきたいんです。

たとえ親戚の前でも、死んでしまった両親のこと、弟の真人のことは話せないでしょ?二人なら、泣きながら思い出すのも、笑いながら思い出すのも自由です。

私達二人に時間をください。
ごめんなさい。

静香と奏より

第四章 同僚に渡した本

低気圧が近いみたい…。

空に黒い雲がみるみる広がっていく。雲めがけて煙をフゥゥと吐き出すと、まるで自分が空の素画像を作っているように思えた。

静香は喘息が酷くて頭痛持ちだというのに、煙草をやめられずにいる。妹の奏も小さな頃からアレルギー体質で、自宅では煙草を吸うことはなかった。

ここは、職場のあるビルの屋上。管理人のおじいちゃんがよく鍵をかけ忘れるから、テナントを借りているさまざまな会社の連中の憩いの場となっていた。

中には、ここでの出会いから結婚した人もいると聞く。

パラソルでもあればなぁ。近くのコンビニからビールやチューハイを買ってきたら、ビアガーデンみたいで楽しいかも。ここが海ならいいのになー。

静香の妄想は止まらない。現実逃避だと自分でわかっていた。

静香の恋人は、小学生の時から野球一筋。今は企業の野球チームに所属している。プロとはいえ暮らしは楽ではないらしい。会えるのは月に一度か二度。それも、静香がホテル代や交通費を出さなければデートすらできない。

恋人の秀斗は会社の寮暮らしで、静香も妹の奏と暮らしているから、互いの部屋でデートはできない。静香の部屋には事故の調べ物がたくさんある。他人には絶対に見られたくなかった。

細身の煙草にまた手を伸ばす。

高校時代の思い出に暫し浸ると、恋人との関係にほとんど変化がないことに気がついて笑いがこみあげてきた。

とはいえ、時間を巻き戻すのは意味のないことだ。高校生に戻ったとしても、別の誰かを好きになることはなかっただろう。

彼の父親はJ 3のサッカー選手で、秀斗と名前がついた彼は野球馬鹿。いいよなー。男にはスポーツがある。

マネージャーは女子二人。静香と友達の由奈は、田舎の高校では美人と思われていて、半年ほど懇願されてマネージャーになった。入部して三ヶ月ほど経つと、二人とも学校の先生や野球部の顧問に隠れて、野球部員の彼女となった。大人になって振り返ると、たぶん部長も副部長もそうなりたくて、静香と由奈をスカウトしたのだろう。当時の二人は野球部員を励ますことがとても崇高なことのように感じていた。甲子園に行くことが叶ったのは、マネージャーである二人にも高校生活最大の輝かしい出来事だった。

恋愛禁止は校外から来る顧問の決めたルールだったが、ほかの部員もバカバカしいと思っていたらしく律儀に守る者は殆どいなかった。部員の親達の中には結婚する年齢が早く、恋愛するからには責任も持てと真っ直ぐに教える親もいた。その教え通りに、副部長とマネージャーは高校卒業後すぐに結婚し、今では子どもたちも野球に夢中だそうだ。静香には望めない人生だ。

部長だった秀斗は、今なにを思うのだろう。幸せだろうか。

静香は、奏の大学進学まで結婚するつもりがないこと、仕事が忙しく楽しいから、結婚しても子どもは欲しくないことを告げている。

あっさりと受け入れてくれた秀斗には、今更ながら申し訳ない気持ちになる。高校時代に付き合ったのが私でなく由奈だと良かったのにね、とさえ思う。

「クリスマスに会えないなんて、ひどいな私。今年でもう何回目?今度こそ別れよっかな。」

屋上に人がいないから、声に出してみる。秀斗にまで、私の人生の辛さを背負わせたくないと思う。

あの日から、血だらけの両親と弟のまこべえが、私の血肉になったんだ。この血で、この肉で、私は奏を育てる。

秀斗には、もっともっと明るい人生を送ってきた人がふさわしいと思うんだ。

そう決意が固まると、煙草よりビールが飲みたくなった。帰りに居酒屋に寄りたくても、奏のことを思うと酔えない。コンビニで買ったビールを飲みながらAmazonプライムで映画鑑賞しよう。

静香は傘を持っているのに、ささずに濡れて帰ることにした。秀斗に会えるのがあと一回だと思うと、雨に打たれて風邪をひいて寝込みたいと思った。

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