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自分語り(様々な視点からの自己紹介)

※全文がかなり長文となるためご注意ください。

前回の記事からかなり経ちましたが、今回は自己紹介をしたいと思います。
自己紹介と言っても、様々な種類があるかと思います。

例えば1つ目、基本情報に基づく自己紹介
名前:hirayou(由来は、苗字2文字+名前2文字 中学3年生の時にモバゲーを登録する際に作成)
出身地:兵庫県神戸市(豆知識:神戸市出身の人は出身を聞かれた場合、大抵兵庫県ではなく、神戸と答えます。)
学歴:関西大学 総合情報学部
年齢:28歳(2024年2月現在)

2つ目、就活等で使用したガクチカ(学生時代のエピソード)を活用した自己紹介
何を書いたかあまり覚えていませんが、良く見えるように脚色(捏造?)していた記憶があります。アルバイトでの経験や大学での学び等、事実に基づくエピソードと共に得られたことは飛躍させていたと記憶しています。(その経験からそんなこと学べたの?的な。今考えると面接官にはバレていると思いますが。)

3つ目、強みをアピールする自己紹介
こちらは、前回の記事の会社から転職活動をする際によく考えました。
外資系の企業ほど、客観的指標(定量的指標)に基づいた実績を重視する傾向にあったかと思います。
私は、その面で言うとなかなか強みをアピールするのが難しかった印象です。
経験した実績に基づいて偽りなく自己紹介を作成しましたが、
例えば、その会社において稀有なポジションであっても、客観的に見て(この場合は、外側の企業・会社・人)、何かわかる形で実績を残しておかなければ、そこまでの価値はないものだと認識しました。
少し自己紹介の主旨と脱線してしまいました。すみません。

前回記事はこちら↓
25歳で年収1,000万円に到達して、その会社を辞めました。
(https://note.com/hirayou_/n/n4ebba084b82c?sub_rt=share_pw)

4つ目、パーソナリティに基づく自己紹介
これは、自分の性格や価値観に焦点を当て、どのような人間であるかを伝える自己紹介です。
私の場合、この前、3年ぶり?くらいにMBTI診断をしました。
結果はINFJ-Aでした。診断を行った16Personalities(https://www.16personalities.com/)の内容を抜粋しながら紹介します。
余談ですが、私は占いを全く信じないタイプです。ただし統計的なデータは信じます。
神社のおみくじは運試しとして楽しめます。
血液型による思考・行動の傾向も、ある程度は統計的データだと思っています。
そんな感じの人間で、MBTI診断については、そこそこの信憑性が担保されていると思っています。

―――引用―――
提唱者(INFJ型)は最もまれな性格タイプですが、社会に大きく影響を与える人たちでもあります。強い信念を持ち、理想主義者である提唱者は惰性で生きる人生には満足せず、自身が立ち上がり、ものごとを改善したいと感じます。お金や地位を得ることを成功とは考えていず、人助けをしたり、世の中にポジティブな変化をもたらしたり、達成感を得たりすることを成功と考えるタイプです。

非常に高い目標や野心を持つというのが提唱者の特徴ですが、のんびりした夢想家ではありません。提唱者は誠意を大事にし、自分が正しいと思うことをしないと気が済まない性分です。自分の価値観をはっきり認識している上に、大切なことを見失わないように常に意識している根っから実直な人たちです。他の人の考えや社会規範をそのまま受け入れるのではなく、自身の知識と直感を基に何が大事か判断して、それを見失わないよう努める人が提唱者です。
――――――――

ざっと目を通す限りでは、下記のように整理できました。
【当てはまること】
・強い信念を持ち
→いわゆる芯がある、考えの軸がある。

・理想主義者
→いわゆる完璧主義

・人助けをしたり、世の中にポジティブな変化をもたらしたり、達成感を得たりすることを成功と考える
→確かに滅私奉公が座右の銘であった時もあり、間違いではない。

続く文章は、大体当てはまっています。

【当てはまらないこと】
・金や地位を得ることを成功とは考えていず
→これはちょっと当てはまっていないかと思います。
 資本主義の中では、これは成功といえると考えています。

また、別サイトではINFJの中でもA(外交的)とT(内向的)な違いに言及しているサイトがありました。(https://koibana-dictionary.com/infj-a-infj-t/#st-toc-h-2)
私の診断結果はINFJ-Aでしたが、自分では内向的な部分も持ち合わせていると思っており、
上記サイトに記載の内容もどちらも当てはまる部分があるなという印象です。
なんならINFJ-Tの方が当てはまるのではないかと思うくらいです。
(バーナム効果かもしれませんが。)

―――引用―――
INFJ-Aの性格をざっくりいうと、
①自信がある
②決断力がある
③積極的
④社交的
⑤目標志向
⑥計画的
⑦自分を表現するのが得意
⑧ストレスに強い
⑨他人を励ますことができる
⑩リーダーシップがある

INFJ-Tの性格をざっくりいうと、
①不安を感じやすい
②慎重
③感受性が強い
④ストレスを抱えやすい
⑤他人の評価を気にする
⑥自分を過剰に批判する
⑦感情に左右されやすい
⑧他人の期待に応えようとする
⑨挫折しやすい
⑩向上心が強い
――――――――

ここまで、色々な自己紹介をしてきましたが、最後のパーソナリティに関しては、あくまでも現在の自分を表している紹介にすぎません。実際に3年ほど前にMBTI診断をしたときのメモがありましたが、ISFP-Tでした。

これより先は、そのパーソナリティを形成してきた私の生い立ちおよびエピソードを記憶の限り記します。

断片的な記憶を含めて自分の経験・記憶の備忘としてここに記すため、話題の脱線や順序がおかしな点等があることはご容赦ください。

【幼少期】(0~5歳)

父と母共働きの家庭で生まれました。4つ上(学年3つ上)の姉がいます。
父方の祖父の家で祖母と5人で暮らしていました。
家は2階建てでしたが、古い家でとても広いとは言えない家でした。

正直なところ2歳くらいからしか記憶がありませんが、
保育園に通っていました。母親の自転車の後ろに乗せてもらいながら通っていました。
保育園を卒園するまで毎日、送ってもらった後、永遠の別れのように泣いていました。
そのため、保育園の先生にはかなり覚えられているそうです。

当時はかなり寂しがり屋で甘えん坊だったと思います。
歩くのがしんどくてよく寝たふりをして、抱っこしてもらっていた記憶があります。

4~5歳頃からは、ゲームをするようになりました。
任天堂は64を発売しておりましたが、私の家はスーパーファミコンしかありませんでした。
ただ、なぜかスーパーファミコンのソフトだけは30本ほどあり、5歳の時にドラゴンクエストⅠ・Ⅱをクリアしていました。
今思い返すと、ストーリーはAボタンを連打していた記憶があり、戦闘を楽しんでいたため、どのようにクリアしていたのかよくわかりません。

その他にある程度やったゲームには、ドラゴンクエストⅢ・Ⅴ、ファイナルファンタジーⅤ、ドンキーコング1・2・3、ボンバーマン、風来のシレン、トルネコ、星のカービィ3・スーパーデラックス、ぷよぷよ通リミックス、シムシティ、ジャンボ尾崎のホールインワン、ファミスタ、4人将棋、ボンバーマン、海釣り名人、桃太郎電鉄等のゲームを黙々と1人でやっていました。
(好きなゲームある方はコメントくださると嬉しいです。)

母はゲームが好きでしたが、父はゲーム反対派、姉は僕と性格が真逆で全然ゲームをしないタイプでした。

また、家の近くに父の妹がおり、2人兄弟のいとこがいました。
いとこの家には64等の最新ゲーム機があり、当時裕福な家庭だなぁと羨ましく思いました。
(後にこれが普通なんだと気づきますが)

この頃は、ゲームで漢字や数字などを覚えていました。当時ストーリーを理解していたのかわかりませんが、RPGが特に好きで、お金の計算はゲームで覚えました。

常日頃からうちは貧乏だからと口癖のように聞いており、
お菓子は100円までと決められていて、スーパーに行った際は、母が出したお金からスーパーのレジ打ちが終わる前にお釣りの計算をして当てるという遊びを楽しんでいました。

当時からなぜか承認欲求が強かったように思います。またずる賢かったように思います。

承認欲求が強かったエピソードとして、お釣りの計算が早くできることを自慢したいというのもそうですが、21世紀になるときに障子に姉と落書きをしました。その際に5歳ながら“能”という漢字が書けるんだぞということを自慢した記憶があります。
(分解して覚えやすい字だったというだけですが。)

また、ずる賢かったエピソードとして、歩きたくないから寝たふりをしていたお話もしましたが、保育園の運動会でリレーのバトンを投げて怒られたというのがあります。
走るのが得意でなかったため、当時の僕は考えた結果、バトンを投げて渡せば走るより速いと考えたのでしょう。今考えると笑えるエピソードです。

ここで1つ人格形成に関わっているであろうエピソードがあります。

保育園の時に毎日遊んでいた3人組がいたのですが、ある日突然全員から無視されるようになりました。
卒園までそこまで日はなかったと記憶しており、他にも友達はいましたが、1人で遊ぶ機会が増えた記憶があります。

なぜ無視されるようになったかは、中学生の時に知るのですが、当時のリーダー格の女の子の母と私の母の職場が同じで仲違いしていたからだと推測できました。
(母は争いを好むタイプではないので、一方的に嫌われていたのだろうと推測できますが)

そのリーダー格の女の子とは小学校も同じでしたが、ほとんど会話はせず、中学でやっと会話をした時間が解決したと記憶しています。
その際は、当時の話などはなく他愛もない話でしたが、このエピソードは深く私の心に刻まれています。子供だったので、人間不信になった、とまではこのときは思っていませんが。

話が少し前後してしまいますが、我が家は貧乏でした。
私はゲームが毎日できていた環境に満足していたのか、あまり客観的に見えていなかったのですが、今の年齢なってわかることは、ざっと5段階くらいに富裕層や貧困層をヒエラルキーに分けたときに下から2番目くらいではあったと思います。

当時1万円は非常に高価と認識していました。もちろん現在も安価と認識しているわけではありませんが、当時の金銭感覚は世間一般よりも2段階も3段階もずれていたかと思います。

欲しいものが買ってもらえるという感覚は、昔から無く、お金のかかることに関しては、どこか毎回遠慮をしていました。

なぜ貧乏だったかについては、この時は知る由もありませんでした。
当時の僕も欲しいものが買ってもらえない悲しさはあるものの、あまり気にしていませんでした。ただ、姉はやはり女の子なので、当時から色々コンプレックスを感じていたようでした。

貧乏だった理由については、後述します。

【少年期】(6歳~12歳)

小学校に入った際、学校が苦手だったと記憶しています。
姉とその友達と同い年のいとこと登校していたのですが、学校に着く直前で家に帰ったり、そもそも学校を休んで母の職場の事務所にいたりしていることが多かったです。
母の職場では皆よくしてくれるので楽しく、家にいればゲームができるので幸せでした。
友達がいなかったわけではなく、保育園が同じ友達、特に女の子の友達は多かった記憶があります。
不登校ではなく、年間で15日くらい欠席しているような感じだったと思います。
当時から完璧主義だったのか遅刻や忘れ物という行為がとても怖かった記憶があります。
良くも悪くも日本教育に染まっており、先生にはかなり従順で、模範のような行動をしていました。
成績に関しては、基本的にテストは90~100点を取っており、塾に行っている子達を軽蔑していた記憶があります。

これは、完璧主義なのか集団行動が苦手なことが原因なのか分からないのですが、
音楽会は4年生になるまで1度も出ませんでした。
練習で完璧にできるようになっているはずなのに当日になると行きたくなくなるといった感じでした。
ただ、3年生の時の女性の担任が学校から逃げた僕を追いかけ、公園で次の年から出てねと熱く語りかけられた際、こんなにも考えてくれているのだなと感銘を受けたのか、4年生からは音楽会にでるようになりました。
このときの担任の先生は、22歳の時にアルバイト先(定食屋)でお客さんとして来られ、偶然再会し、私のことも覚えてくださっていました。
基本的に先生のことを好きにならないのですが、この先生には当時の感謝を軽くお伝えいたしました。

自分で言うのもおかしな話ですが、学校生活では、ある程度人気者ではあったかと思っています。
人ができないことをできるようになりたいという気持ちが当時から強く、
小学校2年生の時に初めて料理をしました。たしか魚肉ソーセージを焼いただけのものと、卵焼きを作ったと思います。
この経験は調理実習で役に立ちました。

また、余談ですが、どこかの新聞社が公告か何かで小さな数・大きな数というところに1から無量大数まで、分から清浄までの数え方を記載していた記事がありました。
それをトイレに貼って、小学2年生の時には暗記してしまいました。28歳になった今でも覚えています。
父が雑学や頭の体操が好きな人で、よく自慢気にお話をしてくれました。そのことが自分の好奇心にもつながっていると思います。

本当は当時していたゲームのお話もしたいのですが、人格形成にはあまり繋がっていないような気がするため、詳しい話は割愛します。

ただ、小学2年生の頃、周りは外で遊んだ際もポケモンのルビー・サファイアをしている中、買ってもらえるわけもないので、友達のプレイを見ていました。

家ではPS2でゲームをしており、ドラクエⅦ、ファイナルファンタジーⅫは母親と進捗をノートで交換しながら、同じデータを進めていました。1度深夜1時にこの敵が倒せないから倒してと起こされた記憶があります。

小学2年生くらいまでは、阪神が大好きでよく野球を見ていました。
小学3年生の時には、引っ越しをして少し部屋が広くなりました。

人格形成に関わったエピソードとしては、小学校5年生の際に問題になったデスノート事件があります。
当時、野球クラブに所属していた割と明るめなメンバーを中心に廊下で説教を受けていました。
私は八方美人のタイプで皆に好かれようとしており、当時そのメンバーにも仲が良いと思っていたメンバーが含まれていたにも関わらず、人づてで聞いたのですが、
私の名前もそのノートに記載されていたようで、かなりショックを受けました。

思い返してみると、私は小学校などでモテるとよく言われるような運動神経が良いタイプではなく、頭が切れてリーダーシップを取るタイプであったこと、また、自分の知識は絶対で、人よりも優れていると思っていたことから、自己中心的で自信過剰な発言が多かったのかなと思っています。

ただ、当時の精神年齢ではうまくこの事象を処理できず、全体的に人と接することに対する自信はなくなりました。

これも余談ですが、5年生のときに仲の良かった友達に塾の冬期講習に誘われ、参加します。
既に中学の内容を行っており、とても刺激を受け、この時、塾に通うことを決めました。

【中学生時代】(13~15歳)

中学時代はとても荒れていました。
環境がとても酷く、3つの小学校区からなっていたのですが、私が通っていた小学校以外の2つの小学校から上がってきた人たちが酷かったです。
また、私の小学校から入学した人もかなり悪い影響を受けました。
朝行くと窓ガラスが40枚以上割られていたり、防球ネットが燃えていたり、毎日火災報知器がなっていたり、授業が授業になっていなかったり、少年院にいったものもいました。

その中でも中学1年生の時の自分は頑張っていました。
学校の授業はほとんど聞かず、週2回の塾のみで成績は10番以内を維持していました。
京都大学に行きたいなという漠然とした思いがありました。
塾内での成績も悪くなく、ハイクラスの上位にいました。

また、姉が10年ほどしていた書道を始めました。
始めた理由は、字が綺麗と普段から言われていたので、そこに段や級という客観的な証明がほしかったからです。

ただ、学校内の環境が荒れていたこと、家庭内でも隣の部屋で習いごとのお金に関する話が聞こえてきたことがあり、習いごとをすべてやめる決断をしました。
塾内の成績も良かったため、講師にはかなり説得されましたが、決断は揺るぎませんでした。

正直、週2回しか塾に行っていないのだから、自学で大丈夫だろうと思っていました。
書道に関しては、毛筆初段まで行ったので、課題の負担が大きかったことからやめられたことはプラスでした。

ただ、現実はそう甘くはなく、塾を辞めて初めての学校のテストで5教科合計点が100点落ちました。はじめは悔しかったのですが、その気持ちも次第に薄れ、勉強をしなくなりました。

これまでは、瞬間的な記憶や勉強の記憶に長けていたのですが、このタイミングを機にその能力がかなり落ちたことを実感しました。

完璧主義で特別だと思っていた自分が、ただの人間だったことに気づかされたとき、性格の転換が1度あったかのように思います。

高校は、勉強しなくてもいけそうな県立の高校を選びました。偏差値は平凡で60弱くらいのところでした。

やり直せるのであれば、中学1年生に戻りたいと思います。もちろん別の環境での話ですが。

また、ここら辺のタイミングで元の家に戻ります。
この時は知らなかったのですが、たぶん父親がリストラされたためでした。
元の家は高校生になる自分には狭く、古くとても嫌でしたが、既に高校生だった姉はもっと嫌だったことでしょう。

【高校生時代】(16~18歳)

地元で上から数えて5番目くらいの県立高校に入学しました。
なぜか学年男女比が100:180人という女子がとても多い学校でした。
高校デビューみたなことは全く考えておらず、自然体で目立たないようにいようと決めていました。
その結果、中学生の時に打ち砕かれた自尊心が、自分の行動の妨げになっていたのではないかと思います。
回りくどい言い方をしましたが、要するに積極性は失われていました。
ただ、自分の中の思いや考えは崩さないようにしていました。

小学校で離れて、高校で再会した女の子の友達には丸くなったなぁと言われました。
加えて、委員会で泣かされたというエピソードも言われましたが、記憶にございません。

高校では部活に入らなかったため、文化祭など行事では時間があり、かなりお手伝いをしていました。
この時点で、INFJの特徴である人のために何かすることに喜びを覚えるという部分はかなりあったのかなと思います。

また、高校に入ってからは、八方美人をやめました。
自分の考えを受け入れてくれる人と一緒にいようと思うようになりました。
それなりに偏った主張もしていたと思います。
それでも、仲良くしてくれた友人には感謝です。

また、中学の時の経験が影響しているのか、この頃から人がある程度どう思っているのかが言動や行動から見えるようになってきました。
この人、自分のこと嫌いだなであったり、あの人今こう考えているだろうなであったり、
本心はもしかしたら的外れなのかもしれませんが。

また、ここら辺で姉とめちゃくちゃ仲が良くなります。
友にこの環境で育ってきた仲間は姉しかいません。
性格は本当に真逆と言っていいほど真逆なのですが、考え方の芯があるという部分については、同じなのかもしれません。
姉は短大を首席で卒業しました。
4年制への編入もできたそうですが、家庭の経済負担も考え、弟(私)のために就職の道を選びました。
感謝しかありません。

ここら辺で父の話に移ります。
正確な時期は覚えていないのですが、ここら辺で父が大学中退いわゆる最終学歴高卒だと言うことを知ります。

父と母は同じ高校の出身で、母方の兄妹も皆同じ高校の出身でした。
その高校は、県内屈指の進学校でした。
普段から父は、自分の高校の出身の有名人のお話などをよくしていました。
なにも不自然に思っていませんでしたが、今考えると確かにおかしいなと思います。
普通はもっと近しい関係の大学であったり、仕事であったりそこら辺で知り合った人の話をするはずです。

父は事あるごとに私が小さな時から大きな会社を薦めてきました。
所謂、レールに敷かれた人生を薦めてきました。
私はその事自体おかしな事だと疑いもせず、大学に行って就職する事がまともな人生だと考えるように潜在的になっていました。

その父が中退だと知った時、衝撃を受けたとともに、貧乏だった理由や高校の話しかしない理由など全てつながりました。

言ってしまえば学歴コンプレックスですね。

1つ言えることは、隠さないで欲しかったと言うことです。

父のことは嫌いではありません。むしろ昔は好きでした。でも今は好きとも言えません。

母は姉の結婚式の際、離婚を3回くらい迷ったと笑い話にしていましたが、本当になぜしなかったのかと思うくらいすごいです。
尊敬します。
父の時間は止まっています。
母は何度も変えようとしたと思います。

結局変わらず苦しいままでした。
私は父を反面教師として生きることを決めました。

父の話は終わりです。

高校1年生のときにある女の子(Aさんとします)に一目惚れしました。
いつも一緒に帰っている子がいるクラス、帰りに迎えに行くたびにAさんがいました。
通学ルートが同じでバスが同じになることもありました。
2年生のとき、Aさんと同じクラスになりました。
どうぶつの森がきっかけで毎日連絡を取るようになりました。
側から見ていたAさんと実際のAさんはギャップがあり、芯が強く、ある程度同世代の考えに批判的な私の考えを理解してくれるタイプでした。
この時の私は、所謂拗らせ男子だったと思います。
なんでもっと絡んでくれないのといったメンヘラのような考えもしていたかと思います。
その子はそれに対して大人な対応をしてくれました。
告白して振られた際も、断り文句でしょうが、付き合って別れたらそこで終わっちゃうけど、友達ならずっと続くと言ってくれました。

と言いながら、2年生の途中からあからさまに無視されるようなりました。
Aさんに彼氏ができたという噂も知りました。
ここから3年生の卒業1ヶ月前まで、Aさんと連絡を取ることはありませんでした。

大学受験もあり、そんなことも忘れ、受験勉強に奮闘していたのですが、私は中学の時に勉強をするということから、逃げていたこともあり、指定校推薦で大学を決めました。
家庭の経済負担のためにも国公立合格に向けて勉強をしていましたが、情報学を学びたいという気持ちもあり決めました。

そんなこんなで卒業を控えているころ、私の誕生日に1通のLINEが届きました。

そこには、Aさんの私に対する祝福と謝罪が長文で記載されていました。
私はそこで、モヤモヤしていたものがすべて晴れたことを記憶しています。

また落ち着いたらご飯でも。

といった締め括りで終わったのですが、
またねと言う言葉は不確かなものです。
大抵の場合、その時は訪れないまま時が過ぎます。
ただ、なぜか5月には2人でご飯にいって笑い話にできるくらいになってました。会話の価値観が合う友達は本当に大切だと思いました。
社会人になってからも相談し合っていた数少ない友人の1人です。
(最近結婚したそうで、祝福しました。)

脱線してしまいましたが、
私が高校3年生になるときには、姉は就職し一人暮らしを始めました。

【大学生時代】(19〜22歳)

大学時代は人格はほぼ出来上がっていました。
19歳のときにスマホゲームの配信をkamcordというプラットフォームでやっていました。
当時まだインターネットで人と絡むのは危ないという認識が大々的に存在する時代でしたが、私は危ない側面は理解しつつ、インターネットだからこそできる出会いを大切にしました。
これはいつもお話することなのですが、今までの人生の中で、絡みたくない人とも関わらないといけなかった、インターネットではそれを無視して絡みたい人とだけ関わることができる点が良い点だと思っていました。

現にこの時代に知り合った方々で8~9年近い関係になった人もいます。

人格形成の面では、スタンフォードの自分を変える教室 著 ケリー・マクゴニガルの影響をかなり受けています。

20歳になる前に自分の悪い部分を直したいというところから、様々な自己啓発本を読んで、マッチしたのが、この本の意志力というお話でした。

自分の状態を客観的に認知することで、人は行動を変えれるといった内容だったか忘れてしまいましたが、そんな感じの内容です。

この後も今に至るまで色んな経験をしているのですが、長くなりすぎましたので、今回はこの辺で。


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