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教師は「子どものお相手係り」になってしまうのか?

森信三『修身教授録』致知出版社 第16講 一道をひらく者(1)

諸君らにしてもしこのような大志を抱かない限り、その前途は、結局は一個のサラリーマンとして、子どもたちのお相手係を務める程度を脱することはできないでしょう。

P115

子どもたちのお相手係。
実に衝撃的な言葉だ。

私はこの件について割と強い危機感を持っている。
かなり前、とある教師がXに、学校が託児所感覚になっている、と投稿していた。
勉強はいいから、日中預かってくれていればいい。
勉強は別にいいから、友達と仲良く、楽しく通ってくれていればいい。
ニュースを見て、そんな保護者の声が聞こえてくるというのである。

学校の教育の価値が落ち、子供たちを日中預かってくれている場となってきているという感覚は保護者だけではなく、教師も持ちつつあるのではないだろうか?

また、危機感を持つ理由の二つ目が、現在の学校の教師の採用倍率の低さにある。
気に入らない自治体、気に入らない学校、うまくいかない学級、そんな時にやめやすくなる。
なぜなら講師になったとしてもすぐにどこかの自治体が採用してくれる。
慢性的な人手不足なうえに、倍率が低いことで、自分本位な退職が増えるのではないか。
そうなったとき、学校の教育力はさらに下がるのではないか、と思うのである。
もちろん、おかしい状況に対して、その場から逃げる、というのは一種の反抗であって、意義を申し立てるのは非常に有効であるし、意義も理解している。
しかし、自分本位ではなく、それが組織のためを思って、ということや、社会全体を思って、自身の信念に従って、というようなことがなければよい結果は生まれないのではないだろうか。

いずれにせよ、学校の教育の価値が下がり、教師は子どものお相手係となっていく未来は、直観的に日本にとってプラスに働かないと思うのである。

冒頭に紹介した、森信三先生の文として、二つの窓を通して、常に将来を考えることが大切であるとする。

すなわちわれわれとしては、全体としての国家そのものの将来は、容易に予断を許さないことですが、しかしただ今申したような、自己並びに生徒の将来については、10年、20年後と言えども、ある程度の予見は、必ずしもできないものでもないでしょう。

P113

国家社会の将来を憂う。
子どもたちの10年後、20年後を予見する。
こういった窓から将来を考えて、心の底に常に持っていて教育活動にあたるのは、「子どものお相手係」でなくなるための条件であるというのである。
忘れずにいたいことだと思うし、学生たちにも伝えていきたいことだ。

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