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映画『夢幻紳士 人形地獄』感想

海上ミサコ監督『夢幻紳士 人形地獄』を鑑賞した。原作は高橋葉介。今年は『夢幻紳士』シリーズ40周年、それを祝し河出書房新社刊のムックと、キャリア初の画集『にぎやかな悪夢』が発売され、今回の映画公開含めて、高橋氏史上最大のブームが起こっている。念のため書いておきたいが、高橋留美子は「るーみっくわーるど」、高橋葉介は「ヨウスケの奇妙な世界」。
ほぼリアルタイム世代な監督が10代のころから暖め、2010年代中ごろに始まったクラウドファンディングを経て2018年になんとか完成させたという本作。いい意味で昭和の自主映画らしい、と表すべきだろうか。人の過去を覗ける超常的な力を携えた寡黙な紳士、夢幻魔実也が、ある日失踪した後に人形のようになって戻ってきた少女・那由子を巡る事件に巻き込まれる数日間を描くストーリー。以下に印象深かったところを書き出した。

舞台設定

舞台は昭和初期と設定されている。『夢幻紳士』自体が大正末期~昭和(第二次大戦直後?)をモチーフにした世界観だが、そこに「幻想の」という修飾がくっついていくるのがミソである。昭和だが、我々が見知ったそれではない、ifの時代であること。『人形地獄』の主なロケ地は千葉や茨城の山地で、平成も四半世紀を過ぎた頃に昭和の風景を求めるという苦闘を想像させるが、半分架空である原作の雰囲気になかなか近い映り方をするから面白い。原作者も好意的だった鈴木清順『カポネ大いに泣く』が横浜をサンフランシスコと言い張ったような、見栄が許され、それが活きていた昭和を描くものだと勝手に思い込んでいただけに、ここは脱力しつつも感心してしまった。終盤の山道を歩くシーンは、原作の冒頭によくあるセリフのない大ゴマ、あの昭和の邦画的な沈黙が出る唯一の場面だけに記憶に残った。

映像

上にも名を挙げた鈴木清順は高橋葉介を語るうえでは欠かせない。『夢幻紳士』の1エピソード「花火」や「鬼」がそれぞれ『ツィゴイネルワイゼン』〜『陽炎座』をモチーフにしているように、清順映画は円谷特撮に並ぶヨウスケ世界の源泉に数えられる。海上監督の師は林海象であるそうだが、『人形地獄』の映像美は林映画をひとっ飛びして清順的映像美に挑んでいるように見えた。上述の清順諸作や林の『夢見るように眠りたい』に代表される木村威夫的美術に接近しているという意味ではなく、映像の合成、『陽炎座』〜『ツィゴイネルワイゼン』で見られるそれらと例えるのが適切だろうか。昨今の技術で録られた鮮明な映像が、昭和的な怪奇演出を受けることで虫食いの不気味さを醸し出している。それは悪く言えば半端なのかもしれないが、監督独自の解釈が反映されている、自主映画らしい点ともいえはしないだろうか。

脚色

最も印象に残ったというか、興味深い点は女性監督がこの作品を手がけたことにある。高橋漫画の持つ男性的デカダンス、善悪二極を行き交う魔女化による女性賛美が顕著なそれに、女性がアレンジを加えたのだ。もともと『人形地獄』の原作は上述の高橋的デカダンスが発揮されていない。だからこそ、海上監督が追加した諸要素–人間を人形化させる雛子と付き人の梅子の関係性と「女性観」–が記憶に残る。これは原作者にだって出来ない芸当である。

ラストの魔実也と那由子の夢の中のやりとりは原作にあるエピソード「目隠し鬼」ラストのあり得た結末を提示しているようで、海上監督なりのプリンス魔実也像が克明に描かれている。原作を一通り眺めたファンなら、これも『夢幻紳士』のパラレルの一つなのだと納得できる、というかそう考えるだろう。毒を盛られて倒れる魔実也がいれば、幽霊船と共に沈没し生死の境をさ迷ったり、蝶の収集が生きがいの大男に殴り倒される魔実也だっているのだから。雛子たちや「老夫婦」のエピソードを出自に持つ小堀の存在も同じパラレル、または過去作をリライトした『夢幻紳士 回帰編』へのオマージュに見える。これらの理由から、『人形地獄』は並行(荒木飛呂彦風に書くなら一巡した)世界としての『夢幻紳士』、ヨウスケの奇妙な世界の可能性を示唆する贅沢な二次創作と呼べるかもしれない。マミ様にしてはほうれい線目立つ気が・・・というツッコミも肴にすべきである。

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