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"音速のバナリスト"マーク・スチュアートを追う

 先日の大阪はエル・おおさかで開かれた、パンク・ムーヴメントの歴史を辿る展示『Punk! The Revolution of Everyday Life』(ほか東京、岡山、長崎、福岡でも巡行)には大いに刺激を受けた。展示されたパンクやriot grrrl(ライオット・ガール)の成果物たるレコードやファンジンはもちろん、「自主制作」という点ではルーツと呼べるヒッピー雑誌『International Times』やシチュエイショアニスト関連のパネルによって、印刷物あるいは録音物を通した反抗の歴史を追うことができた。2018年に 英国のManchester University Pressから上梓されたパンク・ファンジン史研究書『Ripped, Torn and Cut: pop, politics and punk fanzines from 1976』とも重なる部分が多く、同書の再読や、自分が自主制作を続ける動機を再考する機会にもなった。会場内で購入できたパンフレットはコンパクトながら、アルフレッド・ジャリからシチュエイショアニスト、そしてキング・モブ、CRASS、パンク、クィアコア、アフロパンクといった運動史の解説や、デヴィット・グレーバーによる講演の翻訳が掲載されており、手軽に目が通せるのも嬉しい。
展示以来、CRASS、Au Pairs、The Pop Groupなど、(どんなものでもそうだが、あえて書くならば)政治色の濃いグループの音源を聴き返し続けている。ミーハー丸出しだが、自分に嘘はつけまい。

 中でもThe Pop Groupとマーク・スチュアートのソロ活動は音楽的な衝撃もさることながら、改めて時系列を追うごとにスチュアート本人が音楽の向こうへと隠れていくように感じる、その謎(と息の長さ)に惹かれた。以前から動向を追う過程で気になっていたのは、2000年代末に目立った現代美術活動、そして2010年からのThe Pop Group再結成だ。今回はアンダーグラウンドの世界で静かにレジスタンス活動を進めていたスチュアートが、遠回りしつつも地上へと再帰した背景をまとめてみる。

New Banalist

 2000年代のスチュアートの仕事で目立ったものは存外少ない。エイドリアン・シャーウッドとのコンビで取り組んだRadio 4のリミックス、マーティン・ペーターの楽曲への参加、アダムスキと共作したThe Pop Groupの「We Are All Prostitutes」のエレクトロ・クラッシュ的カヴァーなど、小粒のものこそ多いが、内実を伴うものとなると限られてくる。注目すべきは『Control Data』から13年ぶりとなったソロ作『Edit』(2008)とドキュメンタリー映画『On/Off: Mark Stewart』(2009)だろう。当時ベルリン在住であったスチュアートは、この人種の坩堝的な都市が持つ文化的な多様性と、絶えず動き回る己の好奇心との親和性を讃え、同都市から得たヴァイブレーションの結晶として上二つのプロジェクトを完成させた。
スチュアートは2008年の『WIRE』誌インタビュー内で聞き手のマーク・フィッシャーに対して、同時代の芸術に対する認識を多様性に富むベルリンと結びつけて話している。いわく「何かと、さっきまでそこにはなかった別の何かを並置するプロセスこそが、今日の芸術にとって重要だ」。


 スチュアートがベルリン滞在時代に経た多彩な交流を知ると、この発言の重みが増す。その多くが所謂ミュージシャンではなく、総合芸術的な作家であったからだ。中でもスチュアートを触発した存在が、ルパート・ゴールズワージーである。ゴールズワージーはThe Pop Group時代からスチュアートのファンであり、80年のトラファルガー広場で行なわれたバンドのラストギグも目撃している。

ルパート・ゴールズワージー

ゴールズワージーの作品は強い政治性とともに不安を誘発するポップアートである。その言葉とイメージ、そして二者間の相互関係そのものを示唆する表現は、バーバラ・クルーガーやジャック・ゴールドスタインらピクチャーズ・ジェネレーションに代表される、70年代後半からのハイパーリアリズムを思わせる。しかし、ゴールズワージーは切り取られた日常風景に魔術めいたアイコン(カバラのセフィロトやペンタグラム)をレイヤーすることで、アイロニーの枠に収まらない超現実(Hyperreality。スチュアートは「意識が現実と仮想のそれを区別できないこと」という意味で使っている)を鑑賞者に提示する。媒介にカルト宗教やナチス、武闘派共産主義団体が使われることは、芸術としてのプロパガンダという意味におけるイメージと言葉の関係を照らし出すうえでの選択であり、いかに我々が「メッセージに囲まれ、それらを消費しているか」というオーセンティックな問いかけが根幹にある。不道徳のイメージが先行した媒介を積極的に使用することは、90年代後半から2000年代にかけての西海岸でブライアン・M・クラーク、ショーン・パートリッジ(The Partridge Family Temple)、ボイド・ライスらが提唱した「UNPOP」も思わせるが、いわゆるバッドテイストにアイデンティティを持つあちらとは違って、ゴールズワージーは60年代的なラディカリズム、シチュエイショアニストがやっていた社会の要約に近い。
なお、ゴールズワージーは著作としてドイツ赤軍のプロパガンダと同団体のシンボルの変遷を追った『CONSUMING//TERROR: Images of the Baader-Meinhof』(2010, 画像下)を執筆しており、スチュアートは同書の編集をサポートしている。

 ベルリンに移住してきたスチュアートと交誼を結んだゴールズワージーは、95年にオープンした自身のギャラリーを現場に、いくつかの場を設けた。たとえば2009年にキュレーションしたジェネシス・P・オリッジの展示『Spillage』では、スチュアートをパフォーマンス枠として招聘している。この時のパフォーマンスのためにスチュアートとゴールズワージーによって宣言されたグループおよび概念が「New Banalists」である。Banalはフランス古語における「奉仕するもの」転じて英語で「ありふれた」または「陳腐な」といった意味だが、もちろん反語だろう。「新凡人」とも訳せるこのテーゼは、バンドやアート集団といった組織的な意味合いよりは、記号的な役割を持つとしたほうが近い。それはゴールズワージーのアートにも言えることである。

New Banalistsとしての二人の活動は2012年の「I AM THE LAW」展で爆発する。限られた記録(下画像)によれば、キング・モブらシチュエイショアニスト以降の社会運動体から、ジム・ジョーンズらカルト教祖、ナチス、ERP(アルゼンチンの共産主義労働者革命党から派生した武闘派)といった先鋭化の極北たる例を並列し、その間に緩衝材としてクロウリー的なオカルティズムのモチーフを挟みこんでいたようだ。シチュエイショアニスト的に書けばスペクタクル、「ありふれたもの」としてイメージ化した精神を陳列することで、「言語の意味や善悪などの定義は時の権力に相当するものによって決定づけられる」ことがアイロニカルに提示される。「我こそ法だ」という企画名は、アウシュヴィッツの門に書かれた「働けば自由になる」への意趣返しとも言えるもので、社会を構築する常識、バナルな理との対決を明快に記している。
『Punk! The Revolution of Everyday Life』のパンフレットに翻訳が収録されたデヴィット・グレーバー『ポスト労働主義の悲哀-<<芸術と非物質的労働>>』(訳:上尾真道)内で、グレーバーは「政治とはじゅうぶんなだけの人間が信じれば物事が本当に真実になるような社会生活の次元である」として政治の魔術性を説き、「アートワールド」(グレーバーはアート業界をこう呼んでいる)にもこの力学が作用していると警告している。人々の承認によって権力が担保されるならば、その承認に至るまでのプロセスをどれだけ長く、あるいは停止させられるか。展示された作品にしてスチュアートのモットーにもなっている「taste is a form of personal censorship」、「好き嫌いは個人的な検閲である」とも訳せるこのフレーズに個人主義を貫く新凡人二人の狙い、認識にエラーを起こすテロリズムが集約されている。
この時に展示されたいくつかのイメージは同年に限定発行された『Pictures & Words』に収録されている。2018年にはamazonプリントとして再版(上画像)されたため、今でも容易に入手できる。

ケネス・アンガー

2000年代末にスチュアートと協力したもう一人の総合芸術家および詩人がケネス・アンガーである。『ルシファー・ライジング』や『ハリウッド・バビロン』で描かれる、巨大なシステムが持つ象徴性とその魔術めいた気配は、イメージの爆弾の作り手たるスチュアートにとって、今もなおインスピレーションの泉であり続ける。特に『スコルピオ・ライジング』で描かれるハーケンクロイツやキリスト(アンガーのもとへと誤配された『The Last Journey to Jerusalem』なる映画のフィルムをそのまま使用したエピソードが有名)の並置は、あらゆるシンボルを一体化させたCRASSのロゴに先駆けた偶像破壊の表現であった。
アンガーは2007年に大きな手術を受けて経済難に陥っていたが、デヴィット・チベット(Current 93)が流通面でのパートナーであったJnana Recordsと協力して過去の作品を再発し、売上をアンガーへと寄付した。この一件を知ったスチュアートは、チベットを介してアンガーと初めて面識をとったのだった。
2009年5月6日にポルトガルのギャラリーZé dos Boisが主催したアンガーをフィーチャーした企画『Kenneth Anger Cycle』で、スチュアートはポルトガルのダダイスト・グループMÉCANOSPHÈRE(メカノスフェア)と演奏した。MÉCANOSPHÈREのメンバーは同イベントを実質的にリードし、スチュアートも運営の段階でイベントに関わっていたようだ。スチュアートはこのイベントのみならず、次なるアンガーへのサポートとして、彼を主演にしたオペラを書く案を思いついた。「The Immaculate Deception」と銘打たれたそれは、スチュアートによれば「未来の幽霊が過去を取り戻すためにやってきた、そのルポタージュ」なのだという。本オペラはサンクトペテルブルクにて上演する予定まで立てられていたようだが、結局実現することはなかった。マーク・フィッシャーを思い出さずにはいられないこのコンセプトは、スチュアートなりの過去の再考であり、復興になるはずだったのだろうか。いったん行き場を失うも、このアイデアは程なくして後述のスチュアートのソロ・アルバムへと発展していく。

Politics of EnvyとThe Pop Group再結成

ゴールズワージーやアンガー(今回は省くが、もう一つのスチュアート流ポップアート『bomb art』の共同作業者であるピーター・ハリスやアンジー・リード、Nation of Ulyssesのイアン・スヴェノニウスの影響も大きい)との出会いで得たインスピレーションは、そのまま2010年に再結成したThe Pop Groupにも持ち込まれる。だが、それは2015年『Citizen Zombi』まで待たねばならない。その前の表現の場が先にも述べたゴールズワージーとのNew Banalistsと、マークのソロ・アルバム『Politics of Envy』だ。

スチュアートは精神運動(?)たるNew Banalistsの音楽の部門として、「The New Banalists Orchestra」名義でEP『Mammon』を発表した。このEPに対する説明は、ゴールズワージーの作品名からとられた4つの句のみである。

TASTE IS A FORM OF PERSONAL CENSORSHIP.
DENY THE POLITICS OF ENVY
TECHNIQUE IS A REFUGE OF THE INSECURE 
SHADOW WAR

アルバムはパンク・ファンクなThe Pop Groupとも、音響と思想の両面でダブを追求したソロワークとも異なる音楽性を持っている。シンフォニックなバッキングと朗読からなる構成で、その音はKilling JokeやThe OrbのYouthによるものだった。スチュアートとYouthという組み合わせは意外に見えるが、パンク以降の英国オカルティズム運動がアナーコ・パンクと重なっていることをふまえれば、The New Banalists Orchestraが一つの拠点になることも納得がいく(詳しくはこちらの記事を)。
デヴィット・チベット、ゾディアック・マインドワープ、CRASSのペニー・リンボーとイヴ・リバティーン、ホワイトパンサー党創設者の一人にしてMC5のマネージャーも務めたジョン・シンクレア(ホワイトパンサー党はジョンとレニ・シンクレアらによって設立された、白人たちによるブラックパンサー党支持団体)。これらの人物が集結したことは、60年代解放運動の精神が地下を通って脈々と流れ続けてきたことを証明している。スチュアートは彼らを繋ぐハブのような役割を果たしていた。なお、Youthとチベットは後にHypnopazuzuとしてアルバムを発表するが、音楽性は『Mammon』にかなり近い。

スチュアートは2曲目「Envy Of Politics」で自らマイクをとっている。このフレーズはゴールズワージーとの展示にて発表したヴィジュアル作品に由来している。後に「Politics of Envy」と改められて頻用されるようになったこの句は、奇しくも2020年にキリスト教保守派寄りの政治学者アン・ヘンダーショットが発表した著作のタイトルに使われている。かねてからヘンダーショットは『The Politics of Deviance』、『The Politics of Abortion』といったシリーズで論考を発表しているようなのでおそらくは偶然だろう。しかし、ポピュリズム政治の台頭に労働者層の「envy」=嫉妬(とそれを利用する層の存在)があることは現実とされ、結果的にスチュアートの実況者あるいは預言者的側面が発揮されたことになる。それは現実が言葉に追いつき、意味を乗っ取ることの証明である。
The Pop Group『For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?』が2016年に再発された際のインタビューでも、スチュアートとギタリストのギャレス・セイガーは自分たちが若き頃に書いた歌詞が現代の問題について言及しているように聞こえると認めている。「今起きていること」を話すことが、未来について話すことになる。まるでポール・ヴィリリオ(『自殺へ向かう世界』などの著作で、進歩主義の信仰に端を発するテクノロジーの発展がペテンへと至ることを指摘し続けていた哲学者)らのように、スチュアートは現代と繋がり続ける。

「Politics of Envy」はほどなくしてリリースされたマークのソロ・アルバムのタイトルにも冠せられた。リリース時の宣伝でも強調されたように、まず目につくのは当時のマークの人となりを集約したスーパーグループ的編成である。同郷のダディG(Massive Attack)、ボビー・ギレスピー(Primal Scream)やダグラス・ハート(Jesus and Merry Chain)、キース・レヴィン、The Raincoatsのジーナ・バーチと、The Slitsのテッサ・ポリットらポストパンク同窓会的な面々だけでも驚くが、The New Banalists Orchestra の延長としてイヴ・リバティーンが引き続き参加し、Youthにいたっては共同プロデューサーとしてアルバム全編にわたって貢献している(デヴィット・チベットはボーナストラック「Switch」で歌唱)。だが、何よりも驚くのはスチュアートの3本ルーツ、魔術、ダブ、パンクが揃ったことだろう。「Vanity Kills」ではケネス・アンガーが「Technicolor Skull」のパートナーであるブライアン・バトラーとともにテルミンを演奏し、その横ではスチュアートにとってのパンクの洗礼であるリチャード・ヘルがギターを弾いている。「Gang War」ではダブの神たるリー・ペリーにワブルベース風の低音の上で躍らせており、この曲がFactory Floorと書いたNew Order風のダンサブルなロック「Stereotype」が同時収録されたことで、アルバムはスチュアートが見てきたUKクラブ・シーンの変化を要約している。アルバムのクライマックスでは、ケネス・アンガーひいてはクロウリー的神秘主義をも包括したモードとしてのグラムを実践したデヴィット・ボウイをカヴァー(「ヘルミオーネへの手紙」)して、スチュアートはウィリアム・バロウズら知的ソースの入り口となった芸術家へ敬意を称した(その翌年にボウイは突然の復活を果たす)。

ミックスされた世界観から醸造される『Politics of Envy』の混沌は、2015年にリリースされたThe Pop Group再結成後初となるアルバム『Citizen Zombi』のプロセスを形作った。以下はリリース時に『theartsdesk』のインタビュー内で、共同作業についての意見を求められた時のスチュアートの発言。

We all went into this thing completely and utterly open-minded. None of us wanted to make another Pop Group album or go back on something. We’re all so obstreperous and opinionated it would become a fist fight. What you don’t want is anybody to become a "yes" man. What you get when our four characters come together is something completely different. I feel exactly the same as when I was 14 but the only thing I’ve learnt with age is to stand back and when something starts happening, to let it happen. See how many heads this snake grows before you try to control it. That’s the magic, these sparks of letting something happen. It’s like letting a kid grow freely. Like it when you read a text and think, “What the fuck’s that?” Then you read it again. It’s like a haiku, like a song you can hear in multiple different ways.
「メンバーはみんなオープンな気持ちで録音に挑んだ。『Pop Groupのアルバムを作る』とか『過去のやり直しをする』といった目的でそこにいたのではない。年齢を重ねて学んだことがあるとすれば、何かが起こった時はまず距離を置いてみるということだ。この(アイデアという)大蛇を抑え込む前に、頭が何頭あるかを数えてみる。これぞ物事を進展させるための魔術であり、子供を自由に放っておくようなものだ。
(中略)
ある文章を読んで『何言ってんだコイツ?』と思う瞬間が好きなんだ。そしてまたその文章を読み返す。俳句、またはいくつもの解釈ができる歌のようなものだ」。

ゴールズワージーとの共作や『Politics of Envy』の下地である環境を知ると、The Pop Groupの再結成が金の工面に留まらないことがわかる。音楽的な評価は人それぞれだが、「まったく新しいものを作りたい」という簡潔な文句に強い説得力を見出すことができたし、何より再結成の意義が感じられる。
歌詞はかつての「Thief of Fire」や「Blind Faith」以上に不明瞭で修辞と暗喩に富んだ内容になっているが、ルネサンスへと結びついた古代ローマの知の希求と、現代社会の改善のそれを盲目的な恋愛に置き換えた「S.O.P.H.I.A.」には、不可能というバビロンに吠え続けるスチュアートと仲間たちの精神がはっきりとしみ込んでいる。

『Politics of Envy』はBurialのように過去としてのレイヴ・カルチャーを儚むのではなく、あくまで暗い現在に燃えるダンス・ミュージックだった。スチュアート本人が「昔からまったく変わっていない」と豪語するように、その燃料は一貫して混沌である。85年のソロ・シングル「Hypnotized」やアルバム『As the Veneer of Democracy Starts to Fade』で膨大なテープ加工とダブの渦中でバロウズの「Play / Pay it all Back」を執拗にサンプルしたことも、アンガーとリチャード・ヘルに挟まれながら己の「NO」の声を幾重にも響かせる「Vanity Kills」も、自身を強烈なトランスへと追いやる瞑想的な試み、スチュアート言うところの「異物を並置するコラージュ的なプロセス」なのだ。これが他ならぬスチュアート本人に幻視させ、彼を混乱させると同時に、そこからいまだ到達できぬ解決の域を予感させる「超現実」となる。現実の世界を「そこ」へ少しでも近づけるために、彼は世界中の同類たちと繋がるのだが、スチュアートの秀でた点は所謂カルト化に陥らないことだ。積極的に地上を飛び交い、地道に種をまき、水をやり続けている。たとえばバンド再結成のアルバムやライヴの収益は、多くがMerchy Shipsのような団体へのサポートにつぎ込まれている(Merchy Ships:医療サービスを利用できない発展途上国の人々を対象に、無料で医療や農業ノウハウを提供する非営利団体。無数の病院船で国々を行き交う)。

 スチュアートは1980年について「あの時ほど政治が恐ろしく感じたことはない」と『Rip It Up and Start Again』で回顧しているが、この時期を越えてきたことが、彼に「永遠の楽観主義者」と名乗らせるのかもしれない。正確に言えば、絶望のさ中でもあらゆる方向に向かって進むということだ。
2016年のThe Pop Group再結成後2枚目のアルバム『Honeymoon on Mars』について、スチュアートは「暗黒の未来への超音速の旅」と説明する。これこそがダダの詩人たちやシチュエイショアニスト、彼らの理論を応用あるいは解体的に咀嚼してきた者たち、そしてほかならぬスチュアート本人がそれぞれの時代で実践してきた、バナルな「現在」下での生き方なのである。

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